高次本能研究日記@こころ科学

姓名数数秘7の内観と心理分析、人が自分らしく生きるための本能開花について考える記録日記

「自己中心性と主体性の違い」他人のことを考えずに自分ひとりを大切にして生きる

自己中心的って、自分のことだけ考えて行動することじゃない。

自分の思い通りに他人を動かそうとするマインドコントロールを自己中心的と言う。

 

自分のことだけ考えていればいいのに、自分の気分が悪いのは他人のせいだと本気で思い込んでいるなら、自己中心的。

 

他人を変える、言動や行動を注意したり禁止する、あるいは強要する、思い通りにさせようと干渉することで、自分の世界を居心地好いものにしようとするなら、自己中心的。

 

たとえば、「センコウ」という言葉を使うな!と自分が不愉快だから、または、その言葉が悪だという自分の価値観から、使った相手に「使うな!」と言うのは自己中心的。

 

自分の価値観にある「悪いこと」を見つけると非難して直させようとするは、他人への干渉行為、マインドコントロール。よって、自己中心的な支配行為。

 

自分の心の世界が不愉快な反応をしたのは、他人の言動行動が原因だと本気で思い込んでいるので、それを変えてなくすことができれば、不愉快ではなくなると思っているが、それはマインドコントロールという暴力であり、暇人の干渉行為、他人の人生を支配しようとする自己中心的な行為。

 

自己中心的の対義語は主体的。

主体的とは、自分のことだけ考えて生きることだった。

他人になんて構わない。

他人の心と体、その言動と行動は、その人のものだ。

 

たとえば、私がその人に外出するなと禁止することは出来ないし、マスクをするようにと強要させることもできない。

どんな理由で外出しようとも、そんな理由くらいで外出するなと禁止することもできない。

 

野菜嫌いな子供に野菜を食べさせようとするのも、自己中心的。

子供の体と心は子供のもの。子供がそのせいで病気をしても、親のせいではない。

 

体によかろうがなんだろうが、親だって食いたくないものは健康に良くても食わないように、子供にだって食べる食べないの意思がある。

 

子供がそうしたいということを尊重することが主体的。

親だからと責任の”とりすぎ”は干渉監視の自己中心的な行為。

 

無責任という過保護で、子供が大切なことを学ぶ機会を潰しにかかる重い愛情の人間もいるが、愛はときに残酷なものだ。

残酷なうえで、いかに自分の肉体の健康、心の健康といったことが、その出来事を通して痛いくらいに学び実感することを見守る。

 

それが愛。それが親が真に教えるべき愛。

それ以外の愛情は子供にとっては反面教師の愛情。

 

たとえ、政府であっても、禁止や抑制というマインドコントロールを前国民に強要できないように、首相だろうが大統領だろうが、人を変えることができないのは例外じゃない。

 

だから世界的に大事になっているのだが、ひとりひとりに意思がある以上、その意思と行動の選択と結果に責任があるのは本人だけだ。

 

外出するかどうか、マスクをするかどうかは、予防するのかどうか、その心と体の持ち主の他人が決めることだから。

 

その逆もしかり。

私の心と体は私の責任でもってして管理する必要がある。

私が病気なっても誰かには他人事であるように、だれが病気になっても私やほかの人にとっては他人事だ。

 

それが嫌だから私は私を健康的であり続けるよう、免疫力を高めることを意識して実践する。そういうのを自己管理というのだなと気付いた。

 

その体と心を管理する権限は本人にしかないので、他人はどうしてあげることもできないから。

 

もし、緊急事態宣言中にのろのろと街中を歩き回り、それによって病気になり、治療を受けられなかろうが、障害が残ろうが残るまいが、本人の責任だ。

 

自分のせいじゃない?だれのせい?自分以外のだれのせい?

自分以外にだれが『自分』を動かした?

虐待されて殺されかかっている子供じゃあるまいし、自分の意思で自分を自由に動かしたのは誰?

 

TVでそういう人を見ては非難する気持ちがあったのだが、それは自己中心的な暇人によるマインドコントロールだと気付いた。

 

その人たちが病気になってもその人の自由。

その人を治療を施すかどうかは医療従事者の方々が決めること。

 

患者やその家族が、医療従事者からの治療の有無や、医療従事者の治療を施すかどうかの意思の是非を変えることはできないように。

 

他人があれこれと心配したり口をはさむのは干渉でありコントロール

それに、自分を大切にするってことがわからないことを学ぶ機会を奪わず、ときに残酷であっても、見守ることが愛だ。

 

だから私は愛が嫌いだった。

人は残酷な愛よりも優しく生ぬるい与えるのが簡単な愛情を選びたがる。

私はやっぱり病気になって苦しむ愛情より健康な愛のほうがマシだ。

 

残念だったとか、悔しいとか、悲しいという気持ちを感じることは心をもっている人の自由だ。

 

しかし、医療従事者に医療行為を強要することはできないし、自分の思い通りに医療従事者を動かすこともできない。他人に他人への強制力はない。

 

医療があることが当然ではないのに、当然だと思っている人が多い。

それも自己中心的だと感じる。治療してくれるかどうか、完治するまでやってくれるかどうかは、患者側にはどうしよもないというのに。

 

自分の心と体に責任をもっているのは自分で、予防は自分の責任。

治療するかどうかは医者たちの意思と責任。

 

病気になって病院医院に行って「治療をお願いします」とは言えても、治療をやらせることはできない。

 

意思をねじ負けてでもやらせようとするなら、自己中心的。

思い通りにならないことを思い通りにさせようとするのも自己中心的。

 

治療する能力を持っている医療従事者の方々が治療するかどうかを決める意思を持っており、治療は義務ではないのだ。

 

医療がひっ迫する現在であるならなおのことかもしれない。

医療従事者のひとりひとりも生きた、意思と限界がある人間なのだから。 

 

 

 

自己中心性と主体性。

いままで、どっちがどうなのかはっきりしていなかった。

ふたつの言葉の意味が混乱していて、身動きがとれなくなっていた。

 

でも、TVで緊急事態宣言前に外出しようと多くの人が出歩くのを見て、自分の感情の動きを観察して、書き出してみて、わかった。

 

自己中心的というのは、自分の気分のために他人の言動行動を非難して変えようとしたり、禁止しようとしたり、抑えつけたり、自分の価値観の中だけの「悪」の定義を相手に押し付けて気に入らないことをやめさせようとしたり。

 

反対に、やらせようとたり、自分の思い通りにさせようとしたりすることが自己中心的かつ暴力かつ自分の気分を「悪」くするやつが許せないので自分の思う通りに好ましいものへ変えよう禁止しようとすることを、自己中心性だと気付いた。

 

自分には何ら原因はないと思い込み、自分の気分が不快なのは他人の言動や行動、はたまた政治や国、自然現象のせいだとマジで思い込んでいる。

 

他人を変えれば自分の気分が変わると思っているマインドコントローラーたちこそが、自己中心的で、自分のことだけを考えて自分のやりたいことをやり、自分がやりたいようにボランティアをしたり、働いたり、買い物をしたりすることを主体性というのだ。

 

自分のことだけを考えていれば、他人のことなどかまう暇などないし、心も自分に向いている。そのとき、他人がどうなろうが、構いやしない。

 

自分のことを考えて生きることを非難する心理は、「(それを発言した)自分に迷惑をかけていいと思っているのか!?」であったのだ。

 

   自分さえよければいいと思っているのか?

   自分の思い通りにしようとして!

   自分勝手だ!

   世の中はそんなに甘くない!

   自分のことだけ考えて生きていいと思っているのか?

 

こういうことを言うのは、言っている自分への迷惑を考えろと言っているのだ。

その人も他人のことなんざ考えていない。もちろん目の前にいる人のことも。

 

これらの台詞は、自分が不愉快だからやめろ、どうにかしろと言っているのだ。

暗に「自分の気分を害するな」と文句をつけた挙げ句、自分の思う通りの好ましい行動を取れと指図命令している。

 

で、「うるさい!」とか「だまれ!」とか言われたり、無視をされると「なんだと!?」と怒鳴ったり、「あなたのためを思って!」とか押し付けがましくしたり、「あいつはだめだ」などとダメなやつの烙印を押す。

 

その人だって不愉快だからやめろと言ったのに、言った方はなにを言われても言うことを聞いていないのに、それがまるで見えていない。これが自己中心性で生きているときの特徴だ。

 

自分がしたこともあるし、されたこともあるからわかる。

自分の目の前にいるやつが不愉快だから変えたがっているだけだ。

 

監視、干渉、強要、マインドコントロール、洗脳、支配にコントロール、暴力、思い通りにしようとする。他人に干渉するのはすべて自己中心的である。

 

自分が好ましくないのでどうにかしたいだけ、自分が迷惑だから自分のためになんとかしろと言っているだけなんだから。

 

「自分さえよければいいと思っているのか?」と自分好みに相手を変えようとしている時点で、他人を自分好みに変えようと意思と行動を変えてほしいと思って言っているに過ぎない。

 

自分への迷惑を考える人になれと強要しているのに、なにが他人のことを考えて行動しろだ。

自分のことを考えて他人のことまで変えて自分の世界を自分の好ましいものへ変えようとしているのは、そう発言した人自身だ。

 

主体性で生きる人は、人がどのように生きようと構わない。

嫌なことがあればお願いすることはあっても、強要はできないことを心得ている。

 

自分も強要されたくないし、人が変わらないことを知っているし、他人を変えようとするより自分の心や体の面を変えたほうが、自分の世界が心地よくなることを知っている。

 

結果、相手を変えようとせず、自分の思い込みや気持ちの面を工夫するか、離れたり別れたりを選択する。

 

一方、自己中心性で生きる人は、人の言動行動が自分の気分を左右する、幸不幸を決めると思い込んでいるので、一挙手一投足が気になって仕方がない。

 

嫌なことがあれば「やめろ!」「これをしろ!」と禁止したり、強要したり、自分の気に入らないことは禁止したり取り上げるし、自分の思い通りにやらせたり、相手そのものを変えようとしたがる。

 

そういう思考癖があるので、相手を変えようとやっきになる。

相手が自分の気分や自分の世界を左右していると本気で思い込んでいるから。

 

自分の価値観だけを頼りに、とにかく相手が悪いと決めてマインドコントロールをしようとしてくるが、自分のことはまったくコントロールできない。

 

自分だけの価値観の「自分にとっての正義(好き)と悪(嫌い)」を基準に、相手を好ましいものに変えようとするので、相手から恨まれたり毛嫌いされ、ますますその人の自己中心性が占める世界は息苦しいものとなり、ますます他人のせいで自分は苦しいのだとという思い込みを強くする。

 

自分のことだけを考えていて、自分への愛があれば、自分を病気にするような行動は極力避け、免疫力を高めるために自宅で運動をしたり、消毒や予防に気をつけて健康的な生活を心がけることができる。

 

それだけ自分のことを常に考えているので、自分を苦しめる行動を取らない。

結果、他人のことも感染予防することになる。それが主体性。

 

しかし、自己中心性で生きている人は、他人のことにばかりリソースを割いているので、自分がどういう状況にあり、自分のために自分は何をしなければならないのかまったく把握していない。

 

他人の監視とコントロールにばかり時間と手間暇を割いているのだから、自分に意識が向く余裕はない。

 

他人のことにかまけて自分の感染予防や免疫力向上がおろそかになったり、他人にあれこれと干渉した結果、その人の心身の免疫力を下げてしまい、「自分さえよければいい」という結果を招く。

にもかかわず「自分のせいではない、その人の自己管理がなっていない」などと言うのだ。

 

求められてもいないのに、他人のことにあれこれあれこれと口を出すからその人はおかしくなってしまう。

そっちのほうがよっぽど「悪」、罪深いことだと私は思う。

 

どちらが迷惑な自己中心的行為で「自分のことしか考えていない」のかは明白じゃないだろうか?

 

本人が求めてきていて、話を聞いてほしいというのでもないのに、あれこれと禁止したり、話を聞いてほしいだけなのに他人の人生に干渉することは、百害あって一利なしだ。

 

 

 

自分の気分のために人を変えようとしているやつの言う事なんぞ、聞く必要はない。

自分のことだけを考えて、自分を愛し、自分をいたわり、自分を慈しむ。

 

人は他人のことを変えて生きられるほど、余力がある生物ではない。

どうも、人は自分の力を過信して慢心するきらいがあるらしい。

 

自分のことを考えられないで他人を変えようとするなんて、ただの暇人である。そういうことをするのは傲慢だったのだ。

 

人への気遣いと強要はまったく別物であるし、気遣いは相手のためにするんじゃない、自分がしたいからするものだ。

 

相手の気分なんてどうでもいいのだ、自分の気分がよくなるからするのだ。

相手から嫌だと言われたらやめたらいいし、わからなければ相手にどうするか尋ねればいいだけだ。

 

相手に嫌なことし続けたら自分の気分が悪くなることもあるんだし、それはやめていいのだ。自分のために。

 

自分だけを大切にすることで、結果的に周囲を大切にすることにもなるんだ。

他人を大切にしようだとか、他人のことも考えなくちゃなどと意識して心のリソースを他人に割く必要はなかったんだ。

 

「他人への迷惑を考えろ」

それは自分だけの気分を大切にしてほしいの形だけの台詞だ。

 

自身を大切にするのはその心と体の持ち主の役目であり、他人の役目ではない。

自分のことを一番知っていなければいけないのは自分ひとりだ。

 

自分のことを考えていれば白刃を寸出で受け止められる。

他人のことを考えているやつは白刃をその身で受け止める。

他人のせいにしてよそ見していたら自分の身になにが起きるかわからないのだから。

 

 

 

 

★私事

全身、筋肉痛がすごい。とくに上半身、背中や腕がすごいビジビシ。

20分運動したらすごい効果を感じる。

 

このごろ。2~3日くらいの間に、小さい頃の気持ちを鮮明に思い出す。

自己中心と主体性。世間の多くは主体性を非難していると感じた。

他人のことを考えるのが美徳?冗談じゃないよ。

 

小さい頃から他人のことを考えろ、自分のことばかり考えて生きるな、センコウという言葉を使うなと禁止してきた奴らが、自分のことしか考えていなかったやつらだったんだから。

 

そいつらは他人のことを考えろと言いながら、自分の気分や心がざわざわするのを私のせいにして、自分の気分を害するなってことを「他人のことを~」って正義っぽい表現に変換して言っていただけ。

 

自分の気分を害するなって言ったら自分のほうが悪者扱いされるから、それっぽい言葉に換えて自分(発言した人)の気持ちや気分を考えろ、尊重しろってマインドコンロールして、私の表現や意思表示や発言や行為を禁止していたんだから。

 

毎度毎度、私の言動行動を監視して、禁止して、自分だけのことを考えて、自分ひとりのことを大切にして、自分の生きたいように生きる権利を抑えつけて、私が私の生きたいように生きられないように支配してきたんだ。

 

でも、だからといって、そいつらに復讐してもね。

さんざんそれで苦しい思いをしたんだから、もういい。

 

あいつらがなにをしたって、あいつらのしたことは時の歴史に刻まれた。

それは私も変わらないけれど、それでも、復讐する必要はない。

 

復讐に苦しむよりも、主体的に生きていく。

自分だけのことを考えて生きるってしてきたことが少なかったから、どうやってやるのか不慣れになっているかもしれない。

だけど、慣れるためにも主体的に生きることにシフトしていく。

 

他人の気分のために私の意思を変えたり、言葉を抑えたり、行動を禁止するなんて絶対嫌。二度と嫌。私は私のために生きると決めた。

 

いままでずっと他人のために生きた。これからはずっと自分のために生きていく。

自分の価値を再確認するためにも、自分自身を全面的に肯定して、全幅の信頼をするためにも。