自分と心を科学する@こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

だまされて裏切られても自分を無条件に信じることを否定しない

人は、それを悪だと正義感で叩きたがる傾向がある。

しかし、悪だと叩くのはプロセスに過ぎない。

 

正義感に執着する者は、悪を悪だと叩いてすっきりして終わらせたがるようだが、まだ続くのだ。

正義から悪だと叩いても、悪だと叩かれても、そのあとも人生は続くのだ。

人生が続くのであれば、現象もまた起きるし、原因があれば現象はループする。

 

「悪い」、だからどうする?

罰する?罰するのも、プロセスの一部。途中経過だ。

 

罰を与えることは「悪だ」と叩いたプロセスから進んでいない。

「悪だ」、だからどうする?

その悪を二度と起こさないためにはどうする?

正義感に執着している正しいか悪いかで判断する人は、「悪だ」で批判して止まりがちだ。

 

自ら心を改めなければ、執着から心を解放しなければ、何度でも、何度でも「悪」の芽は生まれる。

 

正義に執着する人間には非常に残念なだろうが、罰や報いでは人の心の執着は外れないのが現実であり事実である。

 

事実、私がそうだった。

罰せられれば報復を考えるし、自分は被害者なのに傷つけられたと思えば復讐をしようと思った。しょせん、正義は暴力なのだ。心が暴力だと感じた以上、しつけだ教育だなどという名称など、心には関係ない。

 

正しいか、悪いか、いいことか、間違っているかどうかなど、人の心はそんなものを気にしない。ジャッジしない。

そんなふうにジャッジするようにできているのは思考のほうである。思考は名前をつけたり分類したりするのが好きなのである。

 

しかし、悪という名前のものに罰を与えて反省させても、それでは足りない。

正義が大好きな人たちが大嫌いな悪は何度でも生ずる。

たとえ、その悪を処刑し断罪したところで、何度でも新しい悪の芽は生ずるのだ。

 

正義感、それも執着。

悪、それも執着。

成功、失敗、それも執着。

 

なにかに執着するとき、なにかを恐れている。

なにかにやり返している。

やられたことをやり返し、またやり返されている。

 

正義だ、悪だと断じたところで、まだ人生はつづくのだ。

心は死んでからもつづくのだ。

 

人はなにかを悪と断罪してすっきりして、それで終わったと思い込もうとする。

終わったことにしたがり、これで悪はなくなると思い込もうとする。

 

怖いのだ、悪と叩く対象が。

攻撃しなければ気が済まないほどの恐怖に心がしがみついているのだ。

あのときのことを忘れないように、思い出せるように。

 

しかし、正義に執着し、悪に執着する者は、自分の中の悪からは目を背ける。

悪いと断罪する、感情や事実から目を背けている。

そうして、いつか、自分の背中に断罪の剣が刺さることを恐れている。

 

スピリチュアルリストNORIさんというブログに、騙された人が悪いという文章をみかけたことがある。一年以上まえのことだ。

 

私は、騙される人が悪いとは思わないし、騙すほうが悪いとも思えない。

騙される方は信じて裏切られるのだが、信じた理由が「自分にとって旨味になる約束」や「自分にとって恐怖になる話」など、なにかしら理由がある。

 

だけれど、騙されたほうが悪いと断罪するのは、あまりに短絡的だと思った。

掘り下げが足りないし、それで悪だと断罪された者はどうしたらいいのか?悪と叩いて放ったらかしか?

 

解決策を提示せずに、悪だ正義だと叩いても、心の方はなにも解決されていないのだ。

原因を突くのであれば、解決策も提示する。それが仏教に伝わる内観だ。

自分自身に認められずにいる事実に向き合わせ、事実を認めるのだ。

願望でも、競争心でもない。ただ事実を認めるよう、私なら勧める。

 

それに、どのような条件を提示されてそれに騙されたとしても、それを無条件に信じたことを自分が否定することはないのだ。

信じて騙されるのが悪いとか、信じたからバカを見たんだとか、信じることを否定することは無条件に自分を信じることを否定することと同じだ。

 

騙されたことでお金を取られることがあっても、無条件に信じること、生きてそれを気づく機会があること、自分にとってうまい話や怖い話を信じたのは、自分に欲があり執着があったことを学び気付くための現象だったのだ。

 

騙された!と訴えるのはかんたんだ。

だが、それでは浅いのだ。なにも解決には至っていない。

 

現象が起きたのは自分自身に煩悩や欲があり、欲に執着する苦しい気持ちがあったことを、自分自身で見返す好機、勉強をする現象として捉えれば、どんな現象にも不幸なこともなければ損もないし、バカを見たのではなく煩悩執着を見つけられたのである。

 

悪だ罪だと短絡的に決めつけることで、この貴重な学びの機会を逸することとなる。

命を取られなかったのなら、執着を手放す勉強だと思えればなにも不幸なことではないし、騙された方も騙した方も、それぞれの役割を果たしたということにもなる。

 

騙すほうにもそれなりに役目がある。

騙される方がまわりの人を信じて相談できるか?

恐怖で慌てて焦って一人で暴走しはしないか?

自分自身の直観を信じることができるか?

うまい話や怖い話で騙す人間を引き寄せた自分になにか欲や執着はなかったか?

 

オレオレ詐欺も不祥事をもみ消すという内容もあったと報道で聴いていたので、これは自分になにかしらの執着があったから騙されたとも言えるだろう。

お金か、愛情か、不安か。

なら、その執着を手放して自分を無条件に信じるのなら、直観が働いて騙されることは減る。それが現象の妙味だ。

 

私も信用したのに裏切られたと思った事件が数年前にある。

殺したいほどその男を憎み、自分がその人物を信じたことを呪った。

 

呪って、呪って、呪って、一生苦しめばいいと思った。

騙した人物も、信じて騙されてしまった自分も。

その男のうまい話に騙され、まんまと欲に執着する心に付け入られた。

 

その人物が私を傷つけたように、私もまた同じように相手を傷つけようとしていたことに気付いた。

その男に復讐しようと思ったように、私が相手を傷つけていたら、同じようにだれかから復讐されていたのだろうと思う。

 

うまい話に騙された私が悪い、信じた私が悪かったと何度もなじって責めた。

だけど、信じることは悪いことではなかったのだ。

 

無条件に信じたものを騙せば、なにかを無条件に信じたときに裏切られる。

うまい話だろうと、欲に執着するあまりに騙されようと、無条件に信じることは悪ではないと思った。

 

それに、呪い殺したい、復讐してやりたい人物に騙されたという経験をしたから、無条件に信じることがどういうことかに気付いた。

また、約束したことは果たすべきだという執着や、なにがなんでも払ったぶんは支払わせてやるといった欲望や、復讐ややり返しといった行為が自分自身への復讐仕返しの呼び水になるのだと気付いた。

 

うまい話に騙されてとんでもない目に遭ったからこそ気付いたことはたくさんあった。

達磨のように、転んでもただでは起きない。学び気付いてから起きれば、達磨はいっそう磨かれて輝くのだ。

あえて騙されるのではなく、不意な出来事も捉えようで泥にもダイヤモンドにもなる。

 

騙す人間は、相手に復讐され、殺される報いを受ける危険をかぶりながら、こちらを試すのだ。執着はないか?と。欲望にしがみついていないか?と。

まるで突然の抜き打ちテストのように現れるのだ。

 

そのとき自分を信じ、なんの執着もなければ、大事に至る現象は格段に減る。

抜き打ちテストは煩悩執着を手放していても起きることがあるが、自分自身の芯ができていればどっしりとぶれなくなっていることを実感する機会になるだけだ。

 

もし、自分の中に地獄の試験官を引き寄せても執着する恐れもなにもないのだから、動じずに対応できるようになるのだ。自然界の動物のように堂々と自然に。