自分と心を科学する@こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

家族への復讐のために作られた家族の因果を紐解く

セックスやキスに執着するのって気持ち悪いなと思った。

『好きな人と』セックスやキスをするべきだも執着。

恋人や夫婦とはキスもセックスもするものだも執着。

セックスやキスについての”ルール”を破ったかどうかに執着するのって意味がなかったと気付いた。

 

だけど、まだすっきりしきれない。

ほかになににひっかかったのか?

 

 

 

性欲って悪いもの?

顔の良し悪しに関わらず、性欲ってないほうがいいんじゃないの?

 

そうなると子供も生まれにくくなるし感情も高ぶったりしなくなるし手っ取り早く幸福感を感じることもなくなる。

 

でも性犯罪者はいなくなるし、性犯罪をしたら去勢にでもすれば強姦で傷つく人は確実に減る。

 

人権問題があるから今でこそ去勢はされないんだろうけれど、犬猫の去勢はして人間の去勢はモラルの問題が~人権の問題が~っていうのも変なの!って思う。

 

男性が去勢となれば女性がどうこうなることは必然的になくなる。

性犯罪をしたら去勢っていう法律があれば、訴えれば即、相手に罰を与えられる。

 

でも、相手を罰したいっていう気持ちは、自分がいかに相手によって傷つけられたかを訴えたい、わからせてやりたい、味合わせてやりたいっていう悲しい復讐目的でもある。

 

残念ながら、相手に復讐を果たしても感情は解消されるとは限らない。

だって自罰感情が元だからね。相手を罰しても自罰感情がある、自虐、自己嫌悪感情がある限り、すっきりはしないで、また自己嫌悪の感情を刺激される嫌な出来事が相次いだりするのだ。

 

 

 

しかもこの地球には低次元~高次元、それもさまざまな価値観が入り混じった意識体がアイスクリームのように混ざっていて。

 

まさにジャングルのなかに全生物を詰め込んだかのようなパンドラの箱のような状態で。

 

宇宙では、次元が違えばめったに混ざることなんてないらしいけれど、地球ではごった煮。

 

まるで節操のないおでんやカレーの具のように。

 

でも性欲があるから、人は恋をしたいとか子を産みたいとかいう欲求が生まれて、宇宙から人として生まれてこられて、学べることができて。

 

まあ宇宙的には生まれてこられる状態を作りたいんだろうねえ。

 

でも無理やりやると人間ってヘソ曲げるから、楽しいうれしいきゅんきゅんする~って仕組みを設けたんだろうな。

 

 

 

…大天使ウリエル

粉雪や砂糖菓子のようなソフトなバニラアイスのような気配の大天使ウリエル。の、美の課題。

 

『自分の身も心も美しいと思えるか?』

 

人間の肉体や顔面の美醜のことかと思ったんだけれど、単純に。

 

そのまえに、私は絵を描くのが好きだ。

 

イラストレーターになりたかったけれど、本質では文字でメッセージを伝えたかったらしく、どれだけ歯をくいしばって練習しても、指の腱鞘炎になっても、プロになれるほどの画力はあがらなかった。

 

それは、才能ではなく、そっちではない文字の方向に魂はいきたかったのだろう。

その頃はまだ魂とのつながりを取り戻せていなくて、自我が強くて、絵をやりたいこととして目指していた。

 

でも、本質の私はわかっていたんだ。

だから作文で褒められたことを印象強く覚えていたんだ。

絵はあまり合わないことを本能でわかっていたのかもしれない。

 

小学校中学校でまったく褒められなかった、絵がうまいクラスメイトの女子生徒や優等生ばかり褒められていた絵は趣味にした。

 

唯一小学校一年か二年の作文で褒められたことを思い出して文字にきて、いまブログを書いている。

 

思えば、ゲームでも作画以上に作文に注目していたなあと思う。

おかげで文章力は自然と上達したと感じる。

 

自分のやりたいという自我と、本質の自分自身…深層心理と顕在意識がズレていたんだな。あのころはすごく頑固だったから、自然な流れに乗れていなかった。

そんな心の余裕もなかった。

 

たしかに、世の中にはいろんな上達方法がいろんな分野に存在するけれど、自分に向いていない、天命にそぐわないものは苦手なまま上達しにくいこともある。

 

合わない理由はひとつとは限らないけれど、私の場合は絵が上達しないから文字にきた。

画力もそうだけれど、彩色が一番嫌で苦手だったので、ゲーム業界も諦めた。

 

私はマイペースなので集団生活になるゲーム業界より、フリーで活動できる方が性に合っているし、肌に合う。

スケジュールでぎしぎしに縛られると、檻の中の暴れライオンのような気分になってくる。

 

下手でも好きなら趣味で楽しめるのならそのまま楽しめるだろう。

 

でも、苦痛が上回るなら、才能以前に天命に添ってない方向だからそっちにいかないほうがいいよ~ってサインで、才能を悔いるなら方向転換して楽しいと思える方向に生きたほうが、結果的に私は楽しかった。

 

自分自身や自分の能力やひらめきを活かせるのは楽しい。

 

それに才能がないんだ~!って諦めた分野が、じつはのちのちに役に立った~!なんてこともある。

 

才能の有無じゃない。

天命を見つけて楽しく生きられたとき、これが才能だったとわかるんだ。

 

才能が最初からあるんじゃなくて、それを見つけていくのが本質的な才能、野生の勘?みたいな本能なのじゃないかなと思う。

 

プロの上達方法も真似たって向いていないなら上達しないなんてザラ。

上達しないならするする上達してかつおもしろくてたまらない方向にいったらいいんだ。挫折してからでも自分の命に添って生きる方向転換は遅くないし。

 

私も意地でもイラストレーターになってやる!!って諦めずに小学校から18歳くらいまで、専門学校も行って絵の道にかじりついたけれど、もうだめだ、あきらめようってやっとふんぎりつけた。

 

それが今になって、物語を考えるときやイメージを思い浮かべるときにすごーく役に立っている。

 

サードアイが開いてすぐイメージできたのは、この絵を考えて物語を考える絵と文の空想力を合体させて楽しんでいた結果だもの。

 

捨てるところなんてないのだ、挫折した分野がいずれ役に立つのだと、あのころの私は想像だにしていなかった。

 

当時は絵一本で食べていきたいが本命だから、それがかなわないなら絵なんてもういい!って思ったものだが、けっきょく捨てられなかった。だって好きだから、描くのが。

 

いまは絵は趣味で楽しんでいる。

本命はやっぱり文章。

こっちのほうがやっぱり楽しいのだ。

絵でお金をもらうのは違うなあって感じる。自分で楽しむのが楽しい。

 

絵は文章に添えるためにいろいろデザインするのが好きだ。

絵の力があるから文章での描写も感情移入するし、愛着も湧く。

 

絵は絵が好きな人かつ私が描いてもらいたいって思った人に描いてもらえたらいいんだ。

 

 

 

ただ、ここで美醜が関わってくる。

絵といえば画力。顔の造形美、体の造形美、ポーズの美しさや完成度。

個性をどう活かすかとか、衣装は、メイクは、小物は?

そういう、細かい部分がすごく気になる分野でもある。

 

黄金率の顔はたしかに美しい。

でもそうでない顔はやはり不細工といわれる細工の不満が出やすい。

その不満がくさいニオイを出す。

 

美しくともくさいニオイは出ているので、顔ではない、ニオイは気なのだ。

 

それを自分の顔だと思えばそれはそうだし、私も他人の顔の造形美は「一瞬の美」だと思う。

 

観音様と話していて、参拝に来た人が美人だったらと聞いたら、「人の顔の美に目を見開いてもそれは一瞬のことです」と聴いた、言い得て妙だと感心した。

 

観音様たちに人の顔の造形が見えているわけではなく、気配で判断していると思うのだが、人間の私の価値観でそう解釈した。

 

人形のようだと思ったのだ、美しい顔というのは。

しゃべったら台無し、黙っていれば美しい。

 

しゃべってしまって中身が空っぽ、あるいは、生臭い腐った魚のようだと感じられてしまったら、すべて台無しなのだ。

 

美人が全員が全員、中身が生臭い魚のようだ、ではない。

人の肉体からは抑えきれない精神的なニオイというものを放っている。

 

陰陽学や日本の三大宗教(仏道儒)でもあるとおり「気」というものが肉体からは放たれている。

 

どれだけ肉体や顔面がポーカーを気取ったって、ニオイはごまかせない。

 

本来、肉体にはニオイなんてない。 

分泌物があってはじめて肉体から外へとニオイが放たれている。

 

だけど分泌物もニオイはないと思っている。 

私はそこに個人個人の「気」が混じっていると感じている。

 

同じ汗の匂いでも、相手にたいする先入観や第一印象、自分や相手自身の心理状態でニオイが変わるのだ。

 

汗のニオイ実験というものをTV放送していたのが印象的に残っている。

老人は臭いものだという先入観がある状態で老人のシャツだと明かしてからをニオイをがせると、参加者は「臭い」と感じたという結果に。

 

つぎに、老人ともなんとも言わずにシャツをかがせると「臭くない」と感じたというものだった。

 

人の嗅覚というものは、イメージで作られている。

物理的な臭気はあるものの、その一方で心理的・精神的なニオイも存在するのだ。

嗅覚でさえ、観念や思い込みで、イメージによる臭いを作り出せる機能があるとこのTV放送を思い出して気付いた。

 

臭いって、じゃあ脳が作っているんだとしたら、脳に知覚させているのは精神なので、やっぱりニオイ、気配、気、というものは、根本原因は心因性なのではないかと思うのだ。

 

その人の心に腐敗した感情がこれでもかとあれば、口臭が生ゴミ臭くなる。

酸っぱい臭い、すえた臭い、なにかが腐っているような臭いは、古くなった感情が腐っているのに手放していない、古い感情をいつまでも根に持っているのだ。

仏教で言う執着の正体はソレである。

 

古くなった感情をいつまでも手放さない、なのに生ゴミのように放置しているので、腐った臭いが出てくる。

 

私は外見の美醜よりも心の美醜から出てくるニオイがすごく気になる。どれだけ美しい顔をしていても、心のニオイはぷんぷんする。

 

相手に臭いと感じれば自分にも臭いものがあるということにもなるが、違和感や落ち着かなさというのもニオイ(粒子)だ。

 

微粒子を気配でキャッチしているので、人は違和感やコレジャナイ感などを感じられるし、好きな人かどうかも微粒子をキャッチしているから感じ分けられている。

 

私たちだって動物なのだから、粒子をキャッチすることはできる。

だが、そこは人間で、思考がそれを無視してしまうこともできる。

感じたことをなかったことにしてあとで苦しむパターンだ。

 

感じたことを無視すると100%ろくなことがないので、ニオイという粒子は本能でキャッチしたら疑うことなく従ったほうがいいのだ。

 

 

 

口臭のにおう45歳の男。

そいつはすごく臭い息だった。

 

その男はいつまでも過去のことにこだわっていた。

その過去への執着心がすえた臭いを放つまで腐敗していたのだ。

 

生ゴミのようにいつまでも放置されながら、いつまでも手放してもらえずに、とうとう口からすえた執着心のにおいが出てきたのだ。

 

ときに、父親の洗濯物と一緒に自分の洗濯物を洗いたくないという女性がいる。

あれは、父親は被害者ではないし、女性もやりたくてやっているのではなく、父親の執着心がそのような現象を引き起こしているのだ。

 

どういうことかというと、父親が自分を嫌っているので、女性もその父親を嫌う。

 

父親が自身を嫌って汚いものだと思っているので、娘はそんな父親の心理に同調して、父親の望み通りに「汚いもの」扱いをしている。

 

女性もまた、父親の「自分は汚い」に同調している。

女性自身にも「自分は汚らしいのだ」という気持ちがあるのだ。

 

父親が自身を汚いと思うのなら、父親から生まれた女性もまた汚いということになるし、父親が自身を汚いと思えば女性を汚い目で見ることになり、お互いに「自分は汚い」という自分の気持ちを相手の中に見出しているのだ。

 

父親も女性も自身を汚いという目で見るので、「自分は汚いのだ」と思っている相手がいると感情がぴったり同調していまい、相手の中に「自分は汚い」という自分の気持ちを見て、自分を汚らしいと扱うように相手を扱うのだ。

 

父親を汚いもの扱いしてかわいそうという意見もあるだろうが、バカを言うなという話だ。

 

父親になった男性が自身を汚いもの扱いをしているほうがよっぽどおかしいのだから、そっちを止めるべきではないのか。

 

自分を汚いモノ扱いして、いつまでも過去に執着していることを正当化し、なにが可哀想か。

 自分が汚いと思っている人は相手も汚いものを扱いするのに、なにが可哀想だ。

 

女性のことも汚いもの扱いして、自身を汚いもの扱いすることに執着していて、それに同情する人も、自分を汚いもの扱いしているということだ。

 

けれど反発する人も同情する人と同じだから、私はまだ自分を汚いものだと思っているのかもしれない。

 

一度自分は汚いものだと思いこむと、人に触られることも顔を近づけられることも、なにもかもが汚らしいと感じてしまう。

 

父親が自身を汚いと見る目で、女性を見ることは、一種のレイプだとさえ感じる。

 

母親が、母親の再婚相手の下着を私に洗うように強要しようとしてきて、私は頑として受け入れなかった。従わなかった。

 

母親も、自分のことを汚いと思っているから、私の行為に反発したのだろう。

 

「自分を汚いと思わないでくれ」という母親の自分自身への怒りを私にぶつけることで自分に教えていただけだ。

 

そして、自分を汚いと思う母の再婚相手もまた自分を汚いと思っていて、私自身も私を汚いと思っていた。汚いものだらけで反発したのだ。

 

だから、私はただの下着でも、自分を汚いと思っている母の再婚相手の下着をつまむのさえ嫌だった。

そこには履いた人の気が感じられたからだ。

 

もとをたどれば、私の実の父親のことも汚いと思ったので、自分も汚いものだと思ったのかもしれない。

父親は汚いものだと思った。それが正直な気持ちだ。

 

中年になって腹が出たおっさんの父親と再会したとき、汚い生き物だなと思った。

気持ち悪いのだ、その神経が、その心が。出ている気配が気持ち悪かった。

 

こんな両親から生まれたのかと思うと、自分に反吐が出そうになっていたかもしれない。

 

人間ってどうしてこう気持ち悪い生き物なんだろう。

汚くて、醜くて、臭くて、不細工で、崩れ、老いて、しわがれて、うるさい声を放って、気持ち悪い言葉をしゃべって。

 

私が”人間”であることがすごく疎ましくて、汚らわしいと感じられて、気持ち悪くて、人間がすこぶる嫌いだと感じた。

 

人間を好きになったことなんてない。人間の作るものは好きだけれど、変に念のこもったものは好きになれない。

臭いものなんてとくにイヤ!腐った執着があるから臭うんだ!

私は人間である自分が嫌いなんだ。

 

人間である自分が嫌いなんだから、自分どころか人を好きになったことがあるわけがないんだ。

 

小学校のとき、嘘であの子が好きーなんて言ったことがあるが、いじめと仲間はずれが怖かっただけで、一度でも人を好きになったことはない。

 

生霊に憑かれて好きだと言わされたことはあるが、どう考えても好きではない。

 

投機がうまくいかなかったら自殺するとほのめかした男に、むしろ好きなだけひとりでどうぞ、と言いたかった。

別れた奥さんへの怒りを私にぶつけられても困るというものだった。

 

自分が嫌いなら自分ひとりでどうぞと、そう言って連絡をぶっちぎってやりたかった。それくらい、嫌いだった。

 

世話になろうがなんになろうが、私に生霊を飛ばすような人間、好きになるわけないだろ!!!ふざけんな生霊もろとも地獄に落ちろ!!!

それがあのときの私の気持ちだったのだ。

 

好きなどという好意的な感情は一切なく、お世話になってしまったしと、冷たくするのは後ろめたいという自己保身の気持ちだけだったのだ。

 

生霊に憑かれて好きでもないやつを好きだと言ったり、記憶喪失(一時健忘症)になった経験から、生霊に敏感に殺意を抱いていた時期もあった。

 

気持ち悪い。気色悪い。人間なんてみんな死ねばいい。

醜い人間はみんな消えて、美しい人間は人形のようにただ美しく生きればいい。

 

黙っていれば美しいのに、人間は汚い。穢れている。気持ち悪い。

そうだ、人間から生まれてしまった自分が激しく嫌いだったのだ。

 

人間が嫌い。人間である自分が嫌い。

どこを見ても人、人、人。人間である自分が嫌いで嫌いでたまらなかった。

 

小惑星だか隕石だかが地球に激突して、地球の生命はリセットされるはずだったという。

いっそそうなればよかった。人間なんていないほうがいい、人間は醜くて汚いのだからいなくなればいいのだと思った。

 

人が嫌い。人間が嫌い。人間である自分が嫌い。

だれでもよかったと言って通り魔殺人を起こす人間もいるが、人間である自分がよほど嫌いだったのだろう。

 

私はひとひとり殺傷するよりも、隕石でもぶつかって人間だけが死んだほうが世のためになると思った。

 

動物たちは棲家を奪われないし、汚いものだけが一掃される。

イルカを保護するために日本に来ている人間もいるらしいが、そもそも人間がすべて全滅すれば自然保護だのなんだの考えずとも、自然のサイクルは循環するじゃないか。

 

世の中には隕石衝突を免れるためにあれこれと活動されていた方もいるが、一方で、私みたいに人間すべて滅べばよかったのにと思った人間も当時いたのだ。

 

 

 

なぜ人は舌を入れてキスをしたがるのか?

まるで母親のお乳を吸う牛のようだ。

 

したいからする。

してもいいと思うからする。

 

相手の気持ちも考えないで?

そう、自分がしたいからする。

そこに意味はない。

 

セックスもキスもキスでフレンチキスをすることも、したいからするだけでそれ以上の意味はない。

 

キスやフレンチキスを性的行為と結びつけて性的欲求を感じるようにしているのは人間個人個人だ。

 

勝手に意味を付けて性欲を感じたり、勝手に好意感情、嫌悪感情を抱いているのはひとりひとりの人間で、それ自体に意味はないのだ。

 

キスでレイプされたときに性欲を感じたのであれば、行為に性欲や好意を感じるよう自動的に関連付けているからだろう。

その関連を解除してしまえば、キスはキス、性欲は性欲、好意は好意。

 

好意があるからキスをするという思い込みを解けば、ただの舌と舌という物質だけになるし、行為は行為になる。

私がそうやって、レイプとそのキスにたいして意味付けをしていてとても苦しんだ。

 

なんで好意もなにもない男に性的行為を受け、さらにはキスまでしなければいけないのか。

 

好意のある人と性的行為やキスをするべきだと思いこんでいた。

この思い込みのルールに反するので、葛藤が生じた。

 

好きでもない人間とキスをしたら気持ち悪い、汚い。

だから自分は汚い人間だと思っていた。

 

人間が嫌いだ。人間は汚い。

自分という人間が汚いもの、気持ち悪いもの、嫌なもの、存在しないほうがいいもの、厄介者扱い、金食い虫扱い、家から一度追い出されて、つぎは追い出されそうに何度もなり、家族として扱われていなかった。

 

家の中の厄介者で、私はこいつらを自分の家族だとは思えなかった。

両親という親から生まれてきた自分がすごく嫌だった。

 

親から生まれてきて人間として存在することがすごく嫌だった。

人間の私が存在することが怖い、嫌だ、気持ち悪いと思っているので、人間と会いたくないのかもしれない。外に出たら人間と会わずにいられないから。

 

大天使ウリエルの課題は、愛するか?なので、好きになる必要はない。

あえて嫌ったり責めたりする必要もなければ、無理に好きになる必要もない。

そうしなければいけないんだ、と思うのは記憶を消そうとするのと同じく執着になるからだ。

 

以前、叔父一家の嫁もその娘も家族だと思っていると感じたが、勘違いだったかもしれない。

あいつらと同じ人間であることが恥ずかしい。

 

だが、祖母が彼らの悪口を言うとうるさいと感じる。

彼らが悪く言われることに腹が立つのではなく、いちいち悪口を腹に持つ、言うという行為に苛立つ。

 

どうでもいいことじゃないか、他人のことなんて。

自分の面倒も見られないのに他人の悪口を言う暇などないだろう。どんだけ暇なんだ。

 

しかも、わざわざ労力を使って悪口を言うなんて。

なにが楽しくて生きているのだろうか。

 

鏡の法則上、相手の悪口は自分への悪口。

相手の家が汚いと言えば、物理的な清潔さや整理整頓ぶりにかまわず、自分の家が汚いと言っているということになる。単純には。

 

父親と娘にそれぞれ「自分は汚い」という気持ちがあれば、父親と娘との間に「自分は汚い」という気持ちのバトルが勃発する。

 

悪口の内容いかんに関わらず、第三者の悪口を言ったり第三者への無理解を示す相手に対して苛立つということは、第三者への悪口を言ったり無理解な自分への苛立ち?そういう自分が腹立たしいと責めている?

 

姪、甥、この家の外から入ってくる法律上の親族は、まるでここを自分の家、自分の家族の家だと思って図々しく、遠慮なく入ってきて過ごす。

それがすごく気に入らない。

 

私はこの家の外の人間たちを家族だとは思っていない。

外に出ていった家族、外で生まれた人間を家族だとは認めていない。

 

とくに外に出ていった親族は私を家族として認めなかったと感じたので、私もこの家に帰ってくる家族としては迎え入れず、よそ者、赤の他人として煙たがっていた。

 

私が幼少期に、”家族”からよそ者として煙たがられ、ここはおまえの家じゃない!という扱いを受けたので、私もこの家に来る人間を”ここはおまえの家じゃない!おまえの家に帰れ!!”と、血縁問わずに強い刺々しい怒りを向けていたのだ。

 

私を家族として暖かく迎え入れず、それどころか、家族ではない、おまえの家ではない、出ていけ、どこへでも行け、他人扱いや無視や締め出し…私はここの人間たちから家族としての扱いを受けたと感じないのだ。

 

どこにも行く当てがないので、仕方がなくここに住んでいた。

すると、さも自分家だといわんばかりにでかい顔をした人間が家に入ってきて居座るのが、虫唾が走るくらいに嫌だった。

殺してしまいたいくらいに、居座るのが許せなかった。

 

ハエを叩き潰すように、居座るやつらを叩き潰して家の外に追い出したかった。

私がこの家の人間からハエや外から入ってきた虫のように扱われたから、私はただやり返していただけだ。

 

やられたことをおまえらにやり返してなにが悪いと思っていたのだ。

やったらやり返される。その見本になれるくらいには、私はやられたことを真っ正直にやり返していたのだ。

 

『人にされて嫌なことを人にしてはいけない』

だったら、人にしたことは当然、され返されるということだ。

しかし、このやり返しの範囲が、やった張本人以外にも、また家族以外にも及ぶことも憂慮しなければならない。

 

現象は、いちいち家族だ友人だ親子だのとジャッジしない。

なので、同じ人間であるならお互いに現象を起こし合う。

 

そのため、赤の他人が家族への怒りをぶつける矛先としてやり返しに巻き込まれることも珍しくないのにも、地下水脈にはたしかに原因があって引き合っているのだ。

 

だが、赤の他人といえど、例外はあるとはいえ、引き寄せるものがあったのでお互いに引き合うのだ。

例外は魂同士の計画が決められている場合、引き寄せる引き寄せないではなく、必然として起きる出来事を指す。

 

引き寄せの場合、父親と娘の「自分汚い」感情戦争のように、自分が否定している同じ感情が相手の中にあれば、相手の感情を叩くように、引き合うものがあるのだ。

 

私が家族として扱われなかったと感じた。

ということは、この家系は自分自身もほかの血縁者も、家族として扱われたことがないのだ。

 

だから、私は余計に、新参者である姪や甥に「おまえらも家族扱いされると思うな!おまえらもよそ者だ!そういう扱いをされるのを覚悟しろ!私もそういうふうに扱われたんだから、おまえらも苦痛を味わえ!」と思って、やり返していたということだ。

 

図々しく自分の家のようにくつろぐ姪や甥を見ていると首を締めたくなって仕方がなかった。邪魔でしかなった。

 

私も邪魔者として扱われたから、自分より年下の人間をそういうふうに扱ってやることで、自分がそういう扱いを受けたときにどう感じたかを自分に教えていたのだ。

 

ここは私の家だ!だれも入ってくるな!という感情もあった。

ガチャリ、と玄関の音が聴こえるとぴくりと反応してしまう。

私はたぶん、最初から歓迎されていなかったのだ。

 

小一のときに母親から家を追い出されて祖父母の家に来たが、叔母や叔父は嫌だと思ったのかもしれないし、母親は、私が祖父母の家で暮らすのも気に食わなかったのかもしれない。

 

ここは私の家だ。

これは祖父母がよく言っていた言葉だった。

気に入らないことがあると、出て行けとか、ここは自分の家だ、気に入らないなら出ていけ!と。

 

鏡の法則で分析すると、こうなる。

「ここはおまえの家じゃない」⇔「ここは自分の家じゃない」

「おまえは出ていけ」⇔「自分はこの家では邪魔者なんだ」

 

自分がここにいてはいけない、邪魔にされていると思うと、ここは自分の家だと主張したがる。

 

家を追い出される恐怖か?

自分が追い出されたくないので、相手を追い出そうとする。

 

「自分はここに住んでもいいんだ、家族として認められたい」

だから家に住むことに執着する。

 

「新しい家族が入ってきたら自分が追い出される」

これは、私の母親が私にしたことだ。

 

だから、だれかが家に入ってこようとしたら、とっさに追い出したくなる。

だれも入れたくない、この家に。私が追い出されかねないから。

どんな恐怖を与えられるかわからないから。

 

母親が入ってきたらぶち殺さなきゃと思うくらいには、幼少期の私は母親にとてつもない、追い出され、締め出し、無視して他人のふりをされるなどの恐怖を与えられた。

 

そのときの恐怖を場所もシチュエーションも違うけれど、『だれかが入ってくる』だけで過敏に反応していたのかもしれない。

 

私は家族を求めていたのだろうか?

ここの家族は私の家族ではない。私を家族と認めなかったし、私を何度も家から追い出そうとしたし、追い出す恐怖を与えたし、私もこんなやつらは家族じゃないと思っていた。

 

家族として認め合える家族。

法律上の親等だの戸籍だの血縁だのは私にとってはどうでもいい。

 

心で通じ合えないのなら血縁なんてクソである。

心が通じ合えてはじめて家族なのだと思っていた。

 

追い出そうとしたり、ここは自分の家だぞ!出ていけ!と脅したり、恐怖や不安や暴力で関わり合うやつらは私にとっては家族だなんてとうてい認められなかった。

 

あちらが私を自分たちの家族だと認めなかったし、その人たち自身が自分は家族ではないのだと思っていたのだろう。

 

そうして、叔母や母親は強く「仲良し家族」を求めていた。

なんの執着かと思うほどに。

 

それは私も例外ではなかったけれど、私は疑問をいだいていた。

なぜそうまでして家族を持ちたいのか?

 

なるほど、そういうことだったのだ。

祖父、祖母、母親、叔父、叔母。彼らはほかの家族を自分たちの家族だとは思っていなかったのだ。

 

家族だと思い込もうとしていたが、自分自身を家族ではないと認められなかった。

認めてもらえなかった悔しさや怒りがあった。

祖父祖母なら曽祖父曾祖母、祖父母の子供なら祖父母や親から。

 

そして、彼らは家族を求めて大失敗した。

 

祖母は祖父と家族になって大失敗した人かな。

いつも祖母は結婚したことを後悔していたから。

家族にならなければよかったのに、と私は思った。

 

しかし、結婚して家族になって後悔するのも、家族からされたことを家族になった人間にやり返すのも、自分の中に腐ったものを残したままにしていたからだ。

 

自身に暴力の部分、自己嫌悪の部分、自分は家族ではないといった否定の気持ちが残る以上、平穏で愛と慈愛にあふれた家庭など築けるはずもない。

 

自分が暴力や恐怖を引き寄せてぶち壊すのだから、さもありなんである。

家族だと認められなかった気持ちがあるのなら、その過去の痛み苦しみを復讐するための家庭になるほうがむしろ自然である。

 

相手が浮気しようが不倫しようが暴力を振るおうどうしようが、どうでもいいのである。

自分が、それをいつまでも引き寄せ、喚起し、自分に訴えているのである。

古い腐った感情にさっさと気付いて手放せ、とね。

 

彼らが執拗に家族を求めながら、家族をぶっ壊しにいったり、家族を絞め殺すように精神的な拷問にかけたり、外の人間にはへらへらして、内の人間になった途端に破壊行為に走ったりする理由がわかった。

 

つまりは、家族になれる人間を探し出して、そいつをターゲットにいままでの家族への怒りを復讐したかっただけ。

この家、この家庭は、復讐の家族だったんだ。

 

この理由、しっくりくる。

あ、つながったと思った。

 

復讐の家族が作られた理由は、小夜のことを示唆していたのではないか。

小夜は神を騙る悪霊に騙された村集落、そして家族に裏切られて殺された。

 

そのときの感情が怒り霊になって、この現世まで、私の家系の【呪い】になっていた。

私はその呪いを解くためにも生まれてきた。生まれてきた目的のひとつだった。

おかげで、なんとか呪いを解くことはできた。完全に成仏するには数年かかるらしい。

 

家族に復讐するために作られた家族。

まるで小夜の体験を再現したような流れ。

 

千年以上前、小夜は家族に殺された。そして私も家族に心や人生を殺されかけた。

私は小夜を浄化するために小夜の体験を追体験してきた。壮絶だった。

命こそ取られなかったけれど、心は何度も死んだ気さえする。

 

小夜から千年の間…世代交代が三十年ごととあったので、それを基準とすると、三十三.三回の世代交代が起きた。

二十八世代で一億人以上のご先祖様がいるから、一億二~三千人くらいいるかな?

 

その一億うんぜん人のご先祖様たちが小夜を供養しようとして、できなくて、私で解決に至ったと思うと想像を絶する。

 

まあ時系列的にはそれだけご先祖様がいることになるんだけれど、宇宙的な先祖の数はちょっとわからない。あっちこっちの時代に生まれていたのなら、何億何兆人になるのか。

それでも手を打てなかった。でも解決することができたんだ。

 

思えば、この家系は、復讐に囚われていたんだな。

家族から家族への暴力と復讐に。

 

瞑想ではわからなかったけれど、こうして書き出してみるとなるほどと納得。

瞑想にこだわるのも執着だな。

 

書くことにこだわるなとは言われたけれど、べつに方法なんてなんでもいいんだ。

心がすっきりするなら瞑想でも座禅でも滝打でも武者修行でもブログに書き出すでもノートやチラシの裏に書きなぐるでもスポーツするでも運動するでも。

 

腐ったまま放置しておくから、腐った臭いがやがて体外に現れ始めるのだ。

腐臭には腐臭が寄ってくる。それも引き寄せのうちだ。

 

この家系はまさに小夜の霊に呼ばれて作られた、みたいな面もあるのかな、と思った。

壮絶だった。辛かった。何度死にたいと思ったか、何度殺害してやりたいと恨んだか。

 

もし私が道を外していたら、小夜の想いも取り残されたまま、呪いはまだ続いていたかもしれない。

 

よかった。道を大きく踏み外さなくて。

家系の呪いは解かれたんだ。

なぜこの暴力と復讐と家族が作られたのかもわかってすっきりした。

 

ふ~、 とりあえず休憩しよ。つかれた。