自分と心を科学する@こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

ゲームプレイヤーと主人公キャラは魂と自分の関係

ライトさんとかpyoさんとか、なんかすごそうなことができる人達。

私はそこまでできないので、彼女たちの人生を羨んだこともある。

とくにライトさんは天使という家庭教師やら光の使者たちやらにつきっきりで家庭教師がついていて。

 

私はというと、独力独学で、地面を掘ったり蹴ったり踏みつけたり耕したり、ときには土埃を舞わせて苛立ったり、走ったりと、まあ土臭い生き方をしてきた。ときには憎たらしいあいつに砂をかけることだってしてきた。

 

そんな現実的な私は、現代ではまだ霊能者と呼ばれるだけの開花がたまたまあり、「あーあれ幽霊だったんだな」と肉眼では見えなかった、想像だけは見えていた存在、気配、視線・・・とか、そういうのが幽霊だと知ったり。

心霊番組を見たり暗いところは怖がったりしたのは、心霊番組で免疫をつけつつ、怖いと感じるのは霊感があるんだよ、というサインだったんだ。

 

それが開花したときにどっしり構えていられるようにするためかな、とふと最近なんとなしに思った。

いきなり幽霊だのなんだの見えたら、おとなになってからじゃあちとキツイものがあっただろう。

 

幽霊番組ばかり見ていたおかげで、幽霊?ふーん、と見たこともない、見ていてもそうとは気付かない、ビビらない自分軸が育っていた。

幽霊番組や心霊DVDというのもまったく意味がないわけじゃないということだ。

 

心霊スポットやパワースポットに行って必要もないのに恐怖体験しようとするのはちがうけど。なんか憑けても自己責任(-_-;)

 

でも、浄霊が必要な存在がいたなんて思いもしなかったから、もっと早く気付けていたら、と思わないこともなかった。

 

ライトさんとかpyoさんとか、見えるなら、もしくは、天使やらなにやらの家庭教師がついていたら、もう少し早く人生の転機があったのかなーなんて思ったり。

 

挙げ句に、天使やアセンデッドマスターたちは子供をえこひいきする教師といっしょだ!と怒鳴ってクソミソに言って、私を見捨ててライトさんたちのような人ばかり助けやがって!!って思ったけれど。

 

じゃあ、そういう助けが入りやすいライトさんの人生を送りたかった?言われたら、答えはNOだった。そのときの私に戻れても、いいや、いらないよと言っただろう。

 

いちいち小姑みたいな天使にあれやこれやと教えられて、答えを片っ端から教えられるのって、せっかく楽しみにして買った新作ゲームのネタバレを食うほど、味気なかっただろうな、と思う。

 

さきに答えを知らないからこそ、答えを見つけたとき、わくわくする。達成感がある。

どんな砂の城をつくるか砂遊びをしながら考えるのが楽しいのだ。

 

私は自力で答えを探してきて、答えを見つけ出す力をつけてきた。

自分で問題の答えを探して、自分でできる方法を最大限に探すことをしてきた。

自分で答えを見つける前に彼らに教えてもらったり、だれかが助けてくれる人生を送りたかったか?と言われたら、嫌だと言う。

 

これが私の人生なんだ。

たしかに、前半は助けは入らなかった。だれにも助けてもらえなかった。

少なくとも、目に見える方法では助けてもらえなかった。

 

落とし穴にはまることもあれば、レベル上げの雑魚戦で四苦八苦したこともある。

もーゲームやめたい、と思ったこともあるし、登場キャラに苛立ってルールガン無視したくなったり、本体に苛立ちをぶつけたりもある。

 

もし見えない助けが入っていようとも、私は自分のことに必死でそれどころではなかった。気付きようがない。それくらい必死だったのだ。

 

そんな子供の頃、ライトさんのような人が少しばかり泣いているときには、私は大泣きしていた。

 

ライトさんのような人が風邪をひいたら心配してくれる存在はたくさんいただろう。

でも、私は一人で捨て置かれたように風邪を引いて取り残されていた。

 

ライトさんのような人が転べばなにかが気遣ってくれたかもしれないし見守ってくれたかもしれない。

私はいつでもひとりでころんだ膝をはたき、立ち上がってきた。

 

だからこそついた力がある。

経験してきたことがある。

孤独というものを知っている。

私はそれを自力で見つけて、乗り越えてきた。

開拓者精神ばりばりに育つだけの困難は乗り越えてきた。

 

だれかの人生を歩みたいか?と言われたらNOだ。

アセンデッドマスターや天使たちにあれこれと手伝ってほしいか?と言われたら、必要以上にあれこれと手出し口出しされるのは性に合わないんだろう。

 

一応霊能者、という肩書をもってはいるが、彼らにあれこれ答えを教えてもらって、助けてもらっているか?といえば、彼らのヒントである直観を頼りに試行錯誤やっている。

地道な内観で自分の感覚が楽になっただけ、まえよりやりやすくはなったけれど、やっていることはまえと変わっていない。

 

私にとっての相棒は私だ。

私とは楽園だろうが地獄だろうがどこだろうかいっしょである。

切っても切り離せない存在は私だけだ。

 

だったら私は自分の魂のAIとなる。

魂がプレイヤー、私は操作キャラだ。

だから自我はいらない。

 

勝手に動かれるこどほど、プレイヤーにとってストレスのたまることもない。

コントローラーがぶっ壊れて勝手に動き出すイライラといったらない。

プレイヤーである魂の気持ちは私はわかる。だから自我いらない。

自我は、操作キーがバグった状態を作り出す。

 

アセンデッドマスターや天使に自分の操作を委ねるわけじゃない。

それらは、いわば勇者にくっついている精霊みたいなものだったり、重要なアイテムをくれるサポートキャラだったりする。

プレイヤーである魂は、自分がゲームをプレイしているならわかるように、悪いようにはしない。

最高のEDを目指して、プレイヤーは操作しているのだ。

 

たとえつらいことをコントロールキャラクターにさせることがあっても、それを乗り越えなければ最高のEDにたどりつけないことを、プレイヤーは知っている。

そうじゃないだろうか?漫画や映画のように最後の場面から見ることもプレイヤーならできるのだ。

 

私の人生は私にしか送れない。

アセンデッドマスターや天使が誰をひいきにしようとも、私と私の魂との絆は絶対なものである。

アセンデッドマスターや天使やらとは家族みたいなもの、あるいは親戚やら友人みたいなものだが、魂の私とは切っても切り離せない自分そのものだ。

ならば私は私を信じる。委ねる。プレイヤーの操作性を向上させるために、内観をして快適性をあげる。

 

いまは無職の私には時間がたっぷりとある。

会社に縛られているでもない。通勤もない。オンライン授業もない。

なにをしようともだれにも文句を言われない。

言われようとも私は私のするべきと感じたことをする。それだけだ。

 

人生はロールプレイングゲームだ。

そう教えられた。それが実感に変わりつつある。変わりつつある。

有限だが無限の過ごし方があるこの一日一日を使って、自分自身をもっと快適にしていくのだ。