@自分こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

闇を知らない光、闇を知る光、誘惑の魔の領域

光:闇をほとんど知らない、寄せ付けない光そのもの

 

闇を知る光:闇を知って、光にもどった光

 

闇:光が残っているから「闇だ」とわかる闇

 

魔:闇を引きずり込み、なにも見えない

 

 

 

なぜこの世界に闇だけではなくて魔が存在しつづけるのか?

 

光はなぜ地球の魔を全滅させないのか?

 

光が魔を排除しようとすることこそ、魔の思うつぼだから。

 

正義感という暴力は、たとえどれほどの光であっても闇に転じたとみなされ、闇に落ち、魔に引きずり込まれ、魔をより強めてしまうから。

 

暴力を振るって力づくで排除するのではなく、魔が自然といられなくなるように、居心地が悪くなるほどに光を強めて、魔を地球から追い出すために、光の使者(ライトワーカー)と呼ばれる存在たちがいる。

 

闇に落ちるとき、人の心は弱くなりがちで、魔に誘惑されて人の道を外すこともある。

 

闇に落ちてもぎりぎりのところで踏みとどまらさせて、光に戻せれるようにはなっているので、ギリギリのところを踏みとどまる精神力が試される。

誘惑に駆られなければ、魔落ちせずに、ちゃんと光にもどってこられる。

 

世の中には、光そのものという存在はいる。

かたや、闇を知ってから這い上がることを目的とした存在もいる。

 

一度、闇を知らなければならないので、闇に落ち、光と魔の間で自分を鍛えるハードな訓練を自分に課す。

 

光そのものにも光そのものであるための制限はかかるけれど(闇を知ってはならないし、敏感すぎて日常生活にも工夫がいる)、闇はハードコアっていうか、精神面の軍人世界っていうか。

 

闇を知らない神父さんよりも、闇を知り尽くしてから光にもどってきた神父さんのほうが、私は親しみやすいと感じる。

 

その人も同じつらさを乗り越えてきたんだと思えば、自分だってできるはずだと可能性を信じられるから。

 

この世界は陰と陽があり、陽気だけでも陰気だけでも偏りが出る。

魔はこの陰陽がなく、中庸は陰陽が和合した状態を指す。

 

光に偏りすぎても、光が届かない闇が出てくる。

そして闇に偏りすぎれば自分が危うくなる。

 

でも闇を知らなければならない存在が光にもどったとき、ほどよい光になるのかなあ、なんて私は思う。

 

ライトさんではなく、pyoさんとの魂の約束をさきに果たしのは、pyoさんが中庸に近いからかも。

知っているから、あえて闇を使うこともできるし、光を差すこともできる。

飴と鞭の使い分けができるっていうか。

 

ライトさんはまさに光そのものへ人を導こうとするんだけれど。

その光に気圧される存在もまたいる。

まだそこには行けないと思っているときに、ライトさんの光は強すぎる。

 

そこに闇も鬼も知っているpyoさんは、ちょうどお地蔵様みたいな。

光が強すぎて進めなくて迷っている人に、光と闇をいい塩梅に調整してくれるというか。

元ヤクザの神父さんとか、光と闇の調整役がどこかで必要なのかなあと、自分の経験上思う。

 

闇を耐えてきた人って打たれ強いから、ちょっとくらい厳しくされてもそれについていこうとする。

 

だからpyoさんにもちょっぴり厳しい指導を受けたけれど、私は耐えられた。

それよりもつらい体験に耐えてきた経験があったので、乗り越えられた。

 

闇をわざわざ知りに行くのはちがう。

闇を知らなければならないから知った。

それを越えなければ闇落ちどころか魔に落ちる。

 

そのギリギリを越えて、やるべきを果たしたので、やっと自分の人生本番にもどってきた。

 

そういう闇の経験をした人って、闇落ちした人には希望なんだよね。

光だけの穢れない存在よりも、闇を知ってなお光にもどったことが希望に感じられる。

 

光そのまんまの神父より、元ヤクザの神父さんの進藤龍也をはじめとした人たちに、闇に苦しむ人たちが集まる。

闇が強いと光そのものの人は跳ね返しちゃうからね。

まあ、光ってそういう性質なんだからどうしようもないんだろうけれど。

 

これが闇を知らないカウンセラーだの神父だの坊主だのじゃ話にならないでしょ。

闇を受け止めきれないんだから。

 

闇を知っているから、教えられることもあるし、わかることもある。

だからこそ厳しくなることもあるのだけれど。

 

闇にもいろいろとあるから経験している分野がちがうから、闇を知る光もそれぞれ必要だから存在するんだよって話なのだ。

 

闇を十分体験したなら、そこから這い出る覚悟を決めなくちゃ先に進めないときがある。

 

いつまでもうじうじと「どうして自分ばっかり」なんて言ったらずっと闇の中をさまよいつづけている羽目になる。

 

それがいやなら、蜘蛛の糸に頼らずに、自力で地獄を這い上がる覚悟を決める。

それが光にもどるための第一歩。

 

できない、じゃない。やらないだけ。

自分に厳しくするなら、中途半端に厳しくするより、徹底的に自分に厳しくしてみたら、イヤでも一皮むける。

 

痛ければ、その痛み苦しみから抜け出そうともがくでしょう?

中途半端に「どうして自分ばかり」とか「怖いならできなくてもいい」とか言っているから、いつまでも甘い闇の世界に落ち着こうとする。

 

魔は闇に紛れて、人の心をうまく甘やかし、堕落させようとしていることに気付けば、必死こいて負けるもんかと這い上がろうとするってもんでしょ。

 

pyoさんは「怖いなら、いまは向き合わなくてもいい」なんて、セッション終了後のブログで言っていたけれど。

私に散々怖さに向き合わせておいて何言っているのよって思った。

 

怖さにいっぺん立ち向かって、徹底的にやってみて、それでだめならあっさり引いて、立ち向かえるだけの力をつけてから再挑戦したらいい、と思う。

 

だってダメだ、敵わないってわからないうちからあきらめるってなに?って思うんだもの。

なにがダメなのか、なにが敵わないのか、わかってもいないのにね。