光:闇をほとんど知らない、寄せ付けない光そのもの
闇を知る光:闇を知って、光にもどった光
闇:光が残っているから「闇だ」とわかる闇
魔:闇を引きずり込み、なにも見えない
なぜこの世界に闇だけではなくて魔が存在しつづけるのか?
光はなぜ地球の魔を全滅させないのか?
光が魔を排除しようとすることこそ、魔の思うつぼだから。
正義感という暴力は、たとえどれほどの光であっても闇に転じたとみなされ、闇に落ち、魔に引きずり込まれ、魔をより強めてしまうから。
暴力を振るって力づくで排除するのではなく、魔が自然といられなくなるように、居心地が悪くなるほどに光を強めて、魔を地球から追い出すために、光の使者(ライトワーカー)と呼ばれる存在たちがいる。
闇に落ちるとき、人の心は弱くなりがちで、魔に誘惑されて人の道を外すこともある。
闇に落ちてもぎりぎりのところで踏みとどまらさせて、光に戻せれるようにはなっているので、ギリギリのところを踏みとどまる精神力が試される。
誘惑に駆られなければ、魔落ちせずに、ちゃんと光にもどってこられる。
世の中には、光そのものという存在はいる。
かたや、闇を知ってから這い上がることを目的とした存在もいる。
一度、闇を知らなければならないので、闇に落ち、光と魔の間で自分を鍛えるハードな訓練を自分に課す。
光そのものにも光そのものであるための制限はかかるけれど(闇を知ってはならないし、敏感すぎて日常生活にも工夫がいる)、闇はハードコアっていうか、精神面の軍人世界っていうか。
闇を知らない神父さんよりも、闇を知り尽くしてから光にもどってきた神父さんのほうが、私は親しみやすいと感じる。
その人も同じつらさを乗り越えてきたんだと思えば、自分だってできるはずだと可能性を信じられるから。
この世界は陰と陽があり、陽気だけでも陰気だけでも偏りが出る。
魔はこの陰陽がなく、中庸は陰陽が和合した状態を指す。
光に偏りすぎても、光が届かない闇が出てくる。
そして闇に偏りすぎれば自分が危うくなる。
でも闇を知らなければならない存在が光にもどったとき、ほどよい光になるのかなあ、なんて私は思う。
ライトさんではなく、pyoさんとの魂の約束をさきに果たしのは、pyoさんが中庸に近いからかも。
知っているから、あえて闇を使うこともできるし、光を差すこともできる。
飴と鞭の使い分けができるっていうか。
ライトさんはまさに光そのものへ人を導こうとするんだけれど。
その光に気圧される存在もまたいる。
まだそこには行けないと思っているときに、ライトさんの光は強すぎる。
そこに闇も鬼も知っているpyoさんは、ちょうどお地蔵様みたいな。
光が強すぎて進めなくて迷っている人に、光と闇をいい塩梅に調整してくれるというか。
元ヤクザの神父さんとか、光と闇の調整役がどこかで必要なのかなあと、自分の経験上思う。
闇を耐えてきた人って打たれ強いから、ちょっとくらい厳しくされてもそれについていこうとする。
だからpyoさんにもちょっぴり厳しい指導を受けたけれど、私は耐えられた。
それよりもつらい体験に耐えてきた経験があったので、乗り越えられた。
闇をわざわざ知りに行くのはちがう。
闇を知らなければならないから知った。
それを越えなければ闇落ちどころか魔に落ちる。
そのギリギリを越えて、やるべきを果たしたので、やっと自分の人生本番にもどってきた。
そういう闇の経験をした人って、闇落ちした人には希望なんだよね。
光だけの穢れない存在よりも、闇を知ってなお光にもどったことが希望に感じられる。
光そのまんまの神父より、元ヤクザの神父さんの進藤龍也をはじめとした人たちに、闇に苦しむ人たちが集まる。
闇が強いと光そのものの人は跳ね返しちゃうからね。
まあ、光ってそういう性質なんだからどうしようもないんだろうけれど。
これが闇を知らないカウンセラーだの神父だの坊主だのじゃ話にならないでしょ。
闇を受け止めきれないんだから。
闇を知っているから、教えられることもあるし、わかることもある。
だからこそ厳しくなることもあるのだけれど。
闇にもいろいろとあるから経験している分野がちがうから、闇を知る光もそれぞれ必要だから存在するんだよって話なのだ。
闇を十分体験したなら、そこから這い出る覚悟を決めなくちゃ先に進めないときがある。
いつまでもうじうじと「どうして自分ばっかり」なんて言ったらずっと闇の中をさまよいつづけている羽目になる。
それがいやなら、蜘蛛の糸に頼らずに、自力で地獄を這い上がる覚悟を決める。
それが光にもどるための第一歩。
できない、じゃない。やらないだけ。
自分に厳しくするなら、中途半端に厳しくするより、徹底的に自分に厳しくしてみたら、イヤでも一皮むける。
痛ければ、その痛み苦しみから抜け出そうともがくでしょう?
中途半端に「どうして自分ばかり」とか「怖いならできなくてもいい」とか言っているから、いつまでも甘い闇の世界に落ち着こうとする。
魔は闇に紛れて、人の心をうまく甘やかし、堕落させようとしていることに気付けば、必死こいて負けるもんかと這い上がろうとするってもんでしょ。
pyoさんは「怖いなら、いまは向き合わなくてもいい」なんて、セッション終了後のブログで言っていたけれど。
私に散々怖さに向き合わせておいて何言っているのよって思った。
怖さにいっぺん立ち向かって、徹底的にやってみて、それでだめならあっさり引いて、立ち向かえるだけの力をつけてから再挑戦したらいい、と思う。
だってダメだ、敵わないってわからないうちからあきらめるってなに?って思うんだもの。
なにがダメなのか、なにが敵わないのか、わかってもいないのにね。