@自分こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

自分のスピリチュアルを持て

私は自分で体験したこと、感じたことだけをブログに書いている。

そうじゃないとウソだと思っているから。

ていうか経験したことないことを力説できますかっての!

 

それに、最近はブログを読んだ人が、自分自身の体験に沿って応用できるように、コーチングを受けられなくてもできる内観方法も書いている。

 

そこまでつっこんだ【自分のスピリチュアル】を語っていると自負している。

私にとっては自分の誇りだ。

 

 

スピリチュアルを語る3タイプ

 

①にわかスピリチュアル:聞きかじった情報で知ったかこいて、たいした理解もしないで「メンタルブロックはありません!」と自分が理解できないことは否定し、お得意の物理的自論を展開している。

 

「カルマってこうなんですよ~」と誤解した知識を広めている。

「カルマは罪罰だ」も現世だけに限定した知識も誤っているのだが、そのような誤解を招き勘違いをさせる、「だれかの知識」を自前のように話す。

 

自分が体験したことないこと、たいして調べもしていないのに、否定したり攻撃的にスピリチュアルを否定非難する傾向もあれば、スピリチュアルを過信していたり、自分はスピリチュアルわかっています風な「それっぽさ」を出しているが、【自分スピリチュアル】ではない。

 

本やWEBや他人から見聞きして、真贋を見極めず、自分で深くしっかりと体験したわけでもなく、実践もしたことがないのに、仕入れただけの思い込み情報をさも自分のスピリチュアルとして流している人。

 

じつは恐れを抱えているが知らぬ存ぜぬだったり自分で調べようともしていないので、自分が体験したことを感じ尽くして語ることができない。

 

自分を癒せていないのに、頭でっかちで話したがる傾向がある。

自分でしっかりと内省経験をしていれば、このタイプの言うことが「空っぽ」な上辺だけなのはすぐにわかる。

 

だからこそ、自分の経験は宝なんだ。

 

 

②個人の感想文スピリチュアル:自分で実体験したことを自分なりに解釈しているだけ。

「で?」と聞き返したくなる個人の感想文レベル。

 

なぜその現象(体験した出来事)が起きたのか、自分のなかの原因、その原因の内容、人生のどこらへんでその原因が作られて、どうやってその解釈に至って手放したのか?

それで、ほかのひとはなにに気をつけたり、意識面の改革をすればいいのか、ヒントもクソもない、感想以外は謎なスピリチュアル体験談を語る人。

 

いま一歩踏み込んで自分の体験を調べていないので、他人が応用しようとしても説明不足過ぎて「だからなに?」な感想をただ流している。

 

感想から私個人が採取しているのは、私自身にひっかかる点がないかどうか。

感情的に反応する点がないかどうかの「確認」のためにチェックすることはあるが、感情的反応がなくても気が滅入るので、スピリチュアル系はpyoさん、ライトさん、あっちぃさんのブログ以外は今は見ていない。

 

私はどうも文字や音から敏感にキャッチして疲れるので、私に何もひっかかるものがなくとも、ブラックな感情や情報が流れ込んでくるのが非情に耐えられないので、自分を守るために毒になる波動はシャットアウトしている。

 

自己愛はこういう自分に毒になる波動を打ち止めることも含まれる。

自分を守れるのは自分だけだ。

 

また、個人感想文レベルのスピリチュアルは、個人の解釈に過ぎないので、その人の価値観に乗っ取った、個人的な感想をただ垂れ流しているだけ。

 

その人の価値観に歪み、余計な色付け、偏りや、固定されて頑なになっているものがあれば、すでにその感想が個人止まりになるのは明白だ。

 

だから「で?」しかない。そのさきの説明を求めてもそれ以上がない。深度が浅い。

「そういう考えもあるよね」止まりで「使えるスピリチュアル」ではない。

 

 

③自分のスピリチュアル:現象の因果関係(原因と結果)、鏡の法則引き寄せの法則など、自分自身の体験を調べ尽くして「すっきり」したうえで、応用可能な理論として説明する。

理屈と根拠で裏付けられた「使えるスピリチュアル」。

 

自分の体験から自分はこう思っていたこと(個人の感想)を知り、そのうえで、「なぜそうなったのか?(現象の因果関係)を調べ、理論立てて、根拠となる裏付け(理由、根本原因)を示す。

 

それを読めば、他人が自分自身の現象を調べるために応用できるだけの方法が確立されているし、聞かれれば「自分の場合はこうだった」と、話すなり書くなりして簡潔に説明できるだけの、【自分のスピリチュアル】データベースを保持している人。

 

必ずしも解説するとは限らないが、そのヒントは常に出し続けている。

それらを押し付けないし決めつけない。

こういう考え方もありますよと「一意見」「一視点」として提供するに留める。

 

①②のように、その人のためにと自分の解釈を相手にとっても絶対のものと主張したり、「これが真実なんですよ」といった一面的な視点で相手の選択を狭めたり、相手の奥底に沈む真実を見誤らせることはしない。

 

助けるのではなく、気づかせる力をつけてもらうためのスピリチュアル。

 

 

 

人のスピリチュアル体験や詳細な情報を聞くのが好きだが、③のタイプが好き。

③タイプってなかなか見つからないし、自分でできるから自分でやっている。

 

③の理論や裏付けがしっかりとわかっている、心理分析に応用できる話は自分の役に立つし、いざというときにヒントとして使えることもある。

 

そういう使える情報は見聞きしておいて、自分なりに応用して、自分のスピリチュアルにアレンジしたり、オリジナルの方法を作って、私の方法で人がやってもできるようにと、そういう内観方法の情報も出している。

 

だけど、①②のタイプがスピリチュアルには多すぎると感じる。

 

メンタルブロック解除は効きません⇒個人的な感想に過ぎなくね?

やり方が自分に合っていなかった可能性があるでしょう。

どれほどやったのかも提示して「なぜ効果がないのか」、根拠となるデータがほしいが、提示されていない。

 

一方の考えを否定して自分の考え、やり方こそ正しく効果があると思っている人間がすこぶる嫌いだが、タイトルやらキャッチコピーにそう書くなら根拠は目につくところに示して、否定できるだけの説得力を向上させたら?と思うのだ。

 

自分のすべての体験とそれに費やしただけのデータもなく、全否定する視野狭窄っぷり。

他人の可能性を、自分に適さない方法だったという個人的な理由のみで潰す無責任な行為。

 

さらに、全否定する人の話を信じてすごすごと従う人は自分で自分に合う方法を探そうという気持ちすらない依存心ごりごりな人。

 

ちなみに私は他人にどうにかしてもらうよりは自分の知識を話して楽しんでいる。

自分で内観して、自分をクライアントでありカウンセラー&コーチにして心理分析して、自分を知るために使える知識をブログで出すようになっている。

私の楽しい遊びのひとつ。

 

 

メンタルブロックはない⇒これが典型的な聞きかじって知ったかぶるタイプの、頭でっかちな「未体験を語るにわか(知ったかぶり)」の言い方。

 

WEB情報かなにかをちょっとかじっただけ、聞いただけで、根拠や理論を欠いた否定論で、しかも実践すらしたことないのに、「それなりに聴こえる」ふうに言っているが、実はメンタルブロックの意味をわかっていないだろがミエミエなやつ。

 

 

 

そういうのわかるよ~そりゃ。

感じているくせに頭で考えるからわかってない人も多いけれど、じっくりそういう人の発言を見て、感じてみれば絶対にわかる。

 

「あ、自分(の知識)を正当化したいからって否定したな」

「自分の知識ではわからないことを知って怖いんだな」

「自分が理解できないことが怖いから否定したんだな」

「頭でっかちで物理的なことですべてが解決できると思っているクチだな」

「ばかにされるのがイヤで否定したクチ?」

 

とか、言葉にできなくても、なんとなしに【恐れ】を感じるから。

上記のは私のは一例で、必ずしも恐れとは限らない。

 

感じるときに言葉にする必要ないから、感じたことを素直に自分の感覚で受け取ってみると、「あ」とわかる。

わかるまでやる。それが実践体験。自分のスピリチュアル。

自分の力は自分に役立てるために使ってなんぼ!

 

 

 

そういうわけで、心が追いついていないけれど物質面(特に経済)で豊かになった人の一部がスピリチュアルを語ることにすごく嫌悪感があった。

 

自分でも不思議なくらいにイヤでイヤでたまらなくて、無性に叩きたくなった。

それで、ふと、布団のなかで目をつむっているときに「そうだったんだ」と知った。

 

自分が経験して学んで気づいたスピリチュアルじゃないのに、さも自分が体験したかのように語ったり、ただの感想(個人の解釈)だけしか書いていないのに、気づいた学んだ気になって、個人の解釈をすべての人にとっての真実のように決めつけて語られるのが嫌だったんだ、と。

 

自分の経験じゃないスピリチュアルが嫌。

ただの個人の感想をすべての真実のように決めつけられるのが嫌。

 

あと、学ぶっていうのがイヤだという人もタロット界隈で見かけたことがある。

じゃあ、あなたなんでこの世に生まれてきたわけ?

学ぶのが嫌なら地球は不適当な場所なのに、イヤイヤ学ぶために生まれてきたわけ?

って思ったことがある。 

 

だって地球での学びは、人としての自立もひとつの大きな学び、ひいては魂の経験のため。

それが学ぶって言葉がイヤだとか、学ぶのが嫌だとか、もうさ、屁理屈こいていないでやることやって、学ぶことから卒業したら?とクチばっかりのひねくれ者にはよく思っている。

 

スピリチュアルはクチばっかり達者になってもしゃあないんだよ。

感じる力、感情の力、自分の精神力がモノをいう領域なんだから、言葉なんて本来ないんだから。

 

でも、この地球には言語というものがあるので、気付きの影響を伝え広めるために言葉がある。

だけど、自分の心を知るのに文章力や言葉に変換する力は必須ではない。

感じる力がすべて。信じる心、真贋を見抜く心の力がすべてといっても過言じゃない。

 

 

 

自分スピリチュアルは、自分が体験したことを、自分で感じ尽くして、自分で原因も理由も解消して、こうだったんだとすっきりとした気持ちになったうえで、人に聞かれたら簡潔に説明できることだと私は定義している。

 

迷いなく「こうだったんだ」と話せること。

迷いなく「それも自分だ」と許し受け入れていること。

それが自分スピリチュアルだと思っている。

 

なので、本を読んだり、WEB情報を見たり、他人から聞いた、あるいは教えてもらった話をさも自分の真実かのように、自分の想いかのように語られるのが、ひどく浅くて嫌い。

 

それ、あなたの答えじゃなくて、だれかの答えじゃん。

なに他人の色に染まっているの?

あなたの色はどこよ?

あなただけの答えはどれ!?

 

なにも自分で考えない、感じないままにして、見聞きした情報をう飲みにして、それをヨダレみたいに垂れ流して、自分のスピリチュアルかのように語るのが気持ち悪くて、違和感だけしかなくて、すごく嫌だ。

 

だれかのお仕着せやお古の情報じゃなくて、自分のありのままの感情を語って!!って思うのに、こういうタイプの人は思い込み理論を得意げに話すだけで、まったく心が追いついていない。

 

さらに、個人的な解釈止まりも感情で語っているらしく、エゴで語っている。

つまりまだ根っこまで吐ききっていないってことだ。

だから鼻についたり、重たい違和感のある気配を感じたりする。

 

すっきりしているのなら、ありえない気配なのだ。

例えば、スピリチュアル系ブログを見ていたときなども、根っこまでエゴを浄化していれば、すっきりとした気持ちで爽やかな気配を感じる。

それが、文章の部分部分にエゴが顔を出しているのだから、すっきりしているはずがない。

 

私は根っこまで調べ上げないと気持ちがスッキリしない。

なんでそうなったのかの原因もなく、感想だけを述べられても、感情が出てこないんじゃ、根まで浄化したとは言い切れない。

 

エゴは根っこまで染み渡っているので、雑草のように根っこまで引っこ抜かなければまた生えてくる。

だからエゴを根から手放すために内観をする。

 

そうそう、悟りに興味ない、悟らなくてもいいと言う時点で、エゴや思い込みがあるなあと感じる。

そういうもんじゃないから。悟りって。

 

感情を解放していく、煩悩(思い込み)を解放することで【自然と悟っている】もので、悟りは「なる」とから「ならない」ではないと感じる。

 

自然なものなので、悟りました!統合しました!と自分では言わなくなるくらい自然なもの。

口にしてそう言う人がいたらよく観察してみると、なにが真実かがわかる。

飾った言葉にだまされるな。自分の心の目で感じるんだ!

 

 

 

個人の感想文スピリチュアルは、だからなに?って思う感想だらけで、突っ込んだ話がぜんぜん出てこないし、それ以上に感情も伝わってこない。

 

ひたすら理論が多かったり、ふわふわした気持ちを語ったりで、地に足着いた感情を感じない。

 

格好悪いと思っていた、恥ずかしいと思っていた、自分が嫌いだと思っていた、などなどのそういう気持ち、強い感情がほっとんど書かれていない言わないのも、私が見てきたにわかスピリチュアルの特徴のひとつだった、かな。

 

嫌悪感とかはすぐわかるけれど、ほとんどの人が恐れを隠そうとしているっていうかな。

 

文章から感じる気配が嫌だった文章を細かく見ているわけじゃないけれど、目でなぞれば気配くらいわかる。

 

他人の文章ならなおのことじっくりみなくても客観的にわかる。

わからないなら、自分で自分を鍛えるっていうのが実践経験になるんじゃない?

 

私には私を鍛える方法は100知っているし、そのなかから集中して実践しているけれど、あなたを鍛える方法はひとつも知らない。

あなたを鍛えられるのは、あなたの真実の答えを”知っている”のは、あなただけだ。

 

 

 

私は醜い感情と言われるものでもがんがん書く。

虚勢張ったってウソついたって隠したって、真実は真実なんだから、これが私なんだから正々堂々と書く。

 

そうしたら「私だって完璧な人間じゃないんだ、自分だって這い上がれるんだ!」って勇気にしていける人もいるだろうし、なにもかもが順風満帆どころか、けっこうマイナスな地点からスタートしていることも感じ取ってもらえるだろう。

 

といって、マイナスといいつつ、私は恵まれていると思い始めている。

帰る家があったし、それでも血のつながった家族がいたから。

先祖供養のカルマがあったから、血族は必須だったのかもしれないけれど。

 

いかなる形であれ、家族を体験することができたし、金銭面でも衣食住でも、恵まれた環境を与えてもらっていると思いつつあるし、悪いことばかりじゃなかったことを少しずつ思い出しはじめている。

 

まーまだまだまーだ序の口だけど、これからこれから!

 

 

 

恐怖で埋もれてしまっていた記憶から恐怖をたくさん出していったおかげで、少しずつ、楽しかったことや喜びもあったことも思い出せるようになってきているし、楽しい嬉しいを感じられるようになってきている。

 

それくらい、私は私を無視して、私の話を聞いていなかったので、感情が化石みたいになていたともわかる。

 

その感情解放まで至っていないのに、家族のことをさも気持ち解消していますと話していたり、自信たっぷりに語っているかと思えば、ぐらぐらの自己信頼感が見え隠れしたり。

 

だから、実はお金を自分の軸にしている人は実は”弱い”のかなと思ったり。

 

 

 

ライトさんやpyoさんが「お金じゃないんですよ」と言っているのを聞いて、最初はすごく反発を持っていた。

 

まわりから吸い込んでいたお金に関する思い込みと、それに私の恐れが絡んでいた、あるいは絡んでいるって感じだ。

幼少期の私の周りはお金に関する恐怖がいっぱい、強い人たちが多かったらしい。

 

ま、手放せばなんてことはない。

解放できない感情なんてない。

感情は知ってほしいから現象を起こすのだから。

 

ただ、「お金が全てじゃない」「お金や数字に囚われないで」と聞いていて、私自身もお金は一番じゃないな、ビジネスっていうのは肌に合わないなと感じてきている。

 

経済的に豊かな人たちの語るスピリチュアルって、なんか、その人の心を感じにくいと言うか。

なんていうかなあ。個人の感想文にしてもそうなんだけれど。数字、みたい。

 

まだはっきり説明できないものの、わかっていることは、少なくとも私の場合は、仕事だのビジネスだの働くだのは性に合わないな、ってこと。

 

仕事だの働くだのってなるとルーティーンをただこなせばいい義務的なものになりがちで、「やってりゃあ立派でしょ、一人前でしょ」みたいな思い込みも嫌だし、手抜きしちゃうし、心をこめられなくて本気にならない。私の場合。

 

仕方なく、義務感で、お金のため、生活のため、ってもうウンザリ。

嫌いなんだもの、そういうの。

 

遊びのほうがよっぽどど真剣で本気モードになっている。

遊びなんだけれど手抜きができない、それがめっちゃ楽しかったりする。

 

それに、数字で表すのってなんかな。数学も嫌いだったのよね。

いまでも数学きらいだけれど。通信簿とかでも必ず一番低かったし。

公式?なにそれおいしいの?ってくらい好きになれない。

私は数字じゃなくて夢や遊びに夢中になる自分の気持ちのほうが好き。

 

なんか、お金をさきに得た人たちって、まだ恐れがあったり、エゴが強いのにそれをお金でごまかしている、お金で自分の欠けた部分を補っていると感じるというか。

 

もうお金がたくさんあるから十分って思っていません?

社会的に成功しているから自分は大丈夫と思っていません?

恐れをお金でごまかしてません?

お金があるからって、働いているかって、自立した気になってません?

 

って思う。

 

 

 

個人的な感覚でいえば、①と②のタイプはどっちも経済やビジネスを優先した物質的な人たちの一部にも顕著に現れている。

 

一人暮らししたら自立しているとか。

会社で働くから自立しているとか。

お金持ちだから成功して自立しているとか。

職業が立派だから自立しているとか。

 

なんで自分の恐れも解消できていないのに、わかった気になって、すっきりしていないくせに解決した気になっているの?おかしくない?気持ち悪くないの?って思う。

 

自分のことを知った気になっている、わかった気になっている。

だってお金がたくさんあるから?お金で大成したから?

 

心が未熟なうちにお金が先にあるっていうのも、一長一短ね。

お金があるってだけで自分のことを知ったかぶりしたり、恐れを隠してしまったりするんだから。

 

なきゃないでこれからどうやったら楽しくうれしくお金を稼げるかな?って考えられるけれど、あったらあったで楽な面もあれば、心の枷になっていることもあるのかもね。

実際、それぞれのブログで語っているじゃん。自分にはまだまだ恐れがあります、ってさ。

 

お金が人の目を曇らせる、自分はもう十分だと思わせてしまうだけの力は、現代ではまだあるからね。

その魔力に飲まれていることに気づかない人たちもいるってことだ。

 

だけど、自分を癒せない人にはだれのことも癒せない。

経済的に恵まれた人たちは、経済面では人を癒す力があるんだろう。

 

でも、心のほうはどうだろうね。

心の底のほうに沈んだ淀む闇をほんとうに自分で癒せたといえるのだろうか?

 

 

 

さて。私もまだ沈んだままの泥を浮き上がらせるぞ~!