自分の心のなかにみた恐怖の映像
罪の意識…トラウマになった地獄の過去…それを再来させるような記事…
イメージの中で、私はその記事をずたずたにアサルトナイフで切り裂いた
私はとてもパニックになっていて、恐怖の渦にいた
まるで去年の地獄のような精神状態に引き戻されるような恐ろしい感覚
見えない影に怯えて恐怖でいっぱいになっている
記事を書いた人が私に見えた
自分に償いを求め続けて、都合のいい自分だけ引き上げる(ネガティブ、ポジティブのデータ)
自分に償いを求めていたために、私は私が怖かった
私のしていることが記事を書いた人が反射して
私本体がいつまで償えばいいんだと恐怖した
そうだ、自分に償いを求めるということはこういう恐怖を生むんだ
お礼を言えなかった未練や
恩返しできなかった後悔や
自分の行動の過ちについてはどうすればいい?
お礼が感謝なのか罪の意識からなのか
なぜお礼がしたいのか、考えてみればいいじゃない?
私は数十年感謝を感じている人が二人いるけれど
お礼をしたいとは思わない
ただその人たちのように困っている人がいたら
見返りを求めずに自分ができることならさっと助ける人になりたいと思っている
その二人はとても格好良かった
無償の愛を教えてもらった
いまでも思い出すし忘れないけれど
感謝でいっぱいだ
恩返しをしたいという気持ちはどうする?
自分がしてもらったことを返したいってことでしょう?
つまりは愛情を返したいってことになる
愛情に愛情で返すのは、借金と同じじゃないの?
人のためになにかを返すこと、与えることは愛じゃない
だれかのために生きることも愛じゃない
ほんとうにその人にしたくてしたなら感謝なんて求めない
恩返しも求めない
やったほうだってなにも感じていないだろう
そんなこともあったなあくらいで
それは愛だから
愛を愛情と受け取り、なんでも条件付き、お返しをしなければならないという思い込みがある人が、なにがなんでも恩返ししなけければ、なんて思う
愛に愛情で返そうとする人が、物質的または形式的になにかで返そうとする
お金を支払ったら相当のサービス、物品があるのが当然だという思考で、尽くしたら愛情を注いでもらえると思うのとおんなじ心理
愛に愛情で返す必要はない
愛には愛で受け取る
受けた愛はまただれかを愛することで愛が伝わる
私なら自分の愛の影響を受けて自分もそうしよう!って思ってくれたらうれしい
恩返しって言われたら、なんか悪いことしたかなあって思う
愛情の思いは重い!恩着せがましい!
してもらったことにたいする感謝は自然な愛だけれど
恩返しは物品にたいする支払いみたいなもので、とても不自然だし、重い
恩返しが良いものだ、喜ばれるものだという思い込みがあるんだろう
それにしてもらったら返しもらうべきだと思っているから、自分もそうするのだろう
愛を受け取る価値がないと自分で宣言しているようなもんだ
恩返ししなきゃいけないって気持ちは、相手のためっていう愛情だから、すっごい重い
やってあげた、やり遂げた、それこそ自己満足
相手が本当にどう思っているかなんて、わからないのに、恩返ししてあげたことに満足して「すいませんでした」「自分なんかのために」「お返ししたんでいいですよね」とかとか思ったり…
あーあーその気持ちだけで十分って感じ…
なんか返さなきゃいけないっていう感じが、ああ…重い
愛を愛情と受け取っているから返さなきゃになるんだよ…
じゃあ日光とかどうすんのよ?
そっちにはどうやって恩返しするの?
人間には恩返しして、日光にはどうやって恩返しするの?
日光があるおかげで恩恵を受けているのに、どうやって恩返しするのよ?
日光は愛。
人間から恩返ししてもらおうなんて思っていないし、見返りが欲しくてやっているんじゃなくて、光りたいから光っている
恩返し恩返しって言えば立派だと思いこんでいるのかもしれないけれど、愛を愛情だと解釈して受け取って、返さなきゃって勝手に思い込んでいるんだよね
その人の、その存在の愛を、愛情だと勝手に変換して受け取って、返さなくちゃいけないと思いこむ
それは愛じゃない、だから重い
あの人は見返りを求めているはずだ、自分は愛を受け取る資格はない、その人の愛情に愛情で返さなければ、人からなにか親切にしてもらったことを素直に受け取れない
自分にはそんな価値があるはずがないので、恩返ししなければなどと執拗にその人に返そうとしたり、返せなかった償いをしようとする
自分が愛を受け取る価値がないという気持ちや、その人は見返りを求めていて返したら喜んでくれるはずだという思い込みに支えられているのが恩返しの気持ちだ
愛に愛情で返すという思考を持っている時点で、その人にしてもらった愛を拒絶して受け取らず、認めていない
自分には愛を受け取る資格がないと
愛として受け取っていれば、その人のように自分ももっと愛を広げていくとするものだから
自分の行動の過去の過ちについてはどうする?
責めるんじゃなくて、ありのままに認めて自分のものと受け入れる。
過去の過ちを責めるとき、その罪過ちを犯した自分といまの自分とを切り離して考えている。
いまの自分からちぎった過去の自分を認められず、別の存在としてわけて考えるから、苦しみが生じる。
ありのままに認めないから、痛みが生じる。
過ちだった、ひどいことをした、わるいことをしたなどと、過去の自分に鞭を打って、良心の呵責にさいなまれる人間のように装うが、内心では過去の自分と今の自分とを引きちぎり、過去の自分の行動を責めて虐待する、暴力性をはらんだ精神状態である。
自虐だろうが加虐だろうが、暴力は暴力で、自分だって人である。
人を虐待していることに変わりはない。
償いとなったら、もちろん、過去の自分に償いを求めるだろう。
今の自分ではなく、過去の自分を責めるだろう。
ついでに他人や環境、外を責めるだろう。
そんなことをしたら、過去の自分という人はどうなる?
いまの自分から過去の自分にたいして償いを求められて、責められ、虐待され、そのうえまだ償いをしろと?
一体どうしたら良いんだ?死ねば良いのか?ああそうか死のうじゃないか!
こんなやつ(自分)生きている価値もない!!
そうやって、自虐に走り、加虐に走り、心がくじける。
ちょっと考えたらわかること。
恐怖は恐怖に伝染する。そして恐怖は拡大して、災害を引き起こす。
災害は恐怖を取り除くための浄化現象でもある。
そうでもしなければ恐怖を取り除けない人たちのための、救済措置。
恐怖した自分が悪いのかって?
悪いって思う時点で自分をそうやって責めて、悪いとやつだと自分を責める自分を恐れているのは自分でしょう?