自分と心を科学する@こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

感情は生きていた

祖父が二階から落ちたとき。

酔っていた。階段の端に置いてあった中は緑色の、外が白色の、二段くらいになっていた棚を掴んで、祖父は頭から落ちた。それでも死ななかった。

小学生の私は落ちるとわかって、階段をあがってまで助けようとはしなかった。

祖父が落ちることを見ていた。

タクシーから落ちて頭を怪我したり、祖父は、酔っては自分を罰していたように思う。

小学生ながら、祖父が祖母に暴力を振るうことを私はよく思わなかった。

よくしてくれたとは思う一方、買ってほしいものも買ってくれず、競馬にお金を注ぎ込み、顔を真っ黄色にしてガンで入院し、死んだ祖父。

 

私は見ていたのに助けなかったのだろうか。そうかもしれない。

祖父がいなくなれば祖母がもういじめられなくて済むと思ったから。

祖父がいなくなってこの家は平和になったと感じた。

ああ、やっとだと感じた。

祖父が死んだあとの10年はとても早かったと感じた。

 

私は祖父の葬式のときも泣かなかった。

遺体が家にあるときに一筋涙が出ただけで、ほかは泣かなかった。

あれほど祖父を忌み嫌っていた祖母やその子供たちの涙がひどくクサイと感じた。

私は意地でも泣かなかった。悲しくなかったからだ。

 

でも、あのとき私は見捨てたのだろうか?

祖父が落ちるとわかっていて、なにもしなかった。

祖父がいなくなればいい、罰を受ければいいと思っていたのか。

あのとき、私が動いていれば祖父は落ちなかったのだろうか。

 

なにもできなかった。

なにもできなかった。

なにもできなかった。

なにもできなかった。

なにもしなかった。

私はそのことを悔いていたのか。

危ないって声を出せばよかった。

小学生の私が何十キロもある酔っ払った男を二階で支えればよかった?

自分が犠牲になってでも人を助けるべきだった?

被害が出るだけだと思うが、それでも助けるべきだった。

それが人として当然のこと、だから?

見捨てるなんてしてはいけなこと、だから?

 

見捨てた。

見捨てた。

見捨てた。

見捨てた。

困っている人を見捨てた。

それを悔いていたか。

困っている人がいたら助けるべきだから。

かわいそうだから。

かわいそう。

助けられなくてごめんなさい。

 

困っているものがいても自分に助けられる余力がないなら見捨てるほかない。

自分の無力さゆえに切り捨てることは勇気がいる。

できなかったことを後悔しても仕方がない。

自分の無力さを悔いているのか。

 

自分の無力さと見捨てたことを認める?

助けられたかもしれないのに助けられなかったこと。

助けられたかもしれないのに助けなかったこと。

無力を言い訳にしてしなかったこと。

 

残酷な気持ちを認めるのは気持ちがいい。

認められることが気持ちがいい。

暴力的な感情ですら、それすら私だから。

残酷な気持ちをもっている自分も自分だと認めると、心地よいと感じた。

それをもっと味わいたいから残酷なことをするわけじゃない。

認められた残酷だとされている気持ちが喜んでいると感じる。

残酷な感情は悪いことだと否定すれば感情も悲しむが、残酷な気持ちがあることを認めると感情も喜ぶ。

感情は生き物なのだな。

 

トイレに落ちた子猫←かわいそうと思う自分←それを見て無表情の自分

かわいそうと思ったって何も解決しないのになに言ってんの。

かわいそうかわいそうって言っていたらなにか解決する?

かなしいかなしいって言っていたら解決する?

かわいそうかわいそうって言ってなにか解決するの!?

なにも解決しないでしょ!?なにか解決する!?

私はかわいそうだと思ったのにできなかったんじゃない。

かわいそうだと思ったのになにもしなかったんだ。

やろうと思えば救えたはずなのにあえてなにもしないを選んだんだ。

私は見捨てたんだ。

きっと母親が助けるだろうと他人任せにしたんだ。

自分はできないと思って他人任せにした。

そういうのは大人のやるべきことだと思った。

子供は何もできないと決めつけた。

そしてなにもしなかった。任せきりにして。

子供の自分は無力だからと決めつけて見捨てたんだ。

ああ、私は自分を無力だと決めつけて他人任せにして見捨てたんだ。

いまになって自分を無力だと決めつけて他人に依存する人間にイライラしていたのに、それに気づいたら喜びを感じた。

私は子供のときに見捨てていた、自分を無力だと決め込んで、大人がなんとかするだろうと。

私は子供のときに、すでに無力な自分と決めつけて、大人にやってもらおうとしていた自分が許せないでいたのか。

その感情を認めたら、喜びを感じた。

感情に残酷も善もない。

感情は感情だ。

感情は生きものだ。

どの感情も無視せずに認めれば、そこに喜びを感じる。

 

そういえば。

猫の声がするからと気になってうろうろとしていても、見つからないと見捨てることって人いるよなあ。

見つけたいんだけれど、見つからないから、見捨てる。

探そうとしているようで、助けようとする素振りを見せているようで、けっきょくなにもせず、解決に至らない。

 

見捨てた。そうだ。

じゃあ私はどうする?

どうしようもできない。

過去は変えられない。

罪滅ぼしに似た出来事で助けたって、当時のものを助けられたわけじゃない。

過去に帰ることはできないのだから、罪滅ぼしもできない。

 

それって人でなし?

人でなくなったらなにになる?

鬼になる?

人はいつでも鬼になれる。

私はみんな。みんなは私。

残酷な人間の感情を私も持っている。

無表情で無感情でどこまでも残酷になれることも知っている。

残酷さなんて聖人君子だってもっていたはず。

ただそれを選ばなかっただけ。

あると知って認めたうえで残酷なほうを選ばなかった。

感情はあると認められればそれ以上自己主張することもなくなる。

残酷な感情を認められないと生き物である感情は無視をするなと主張するのかもしれない。

 

私は残酷でもある。

否定したくなるほど醜くても紛うことなく私の感情だ。

聖人君子と呼ばれる彼等は聖人君子になったわけじゃない。

人が勝手にそう決めただけだ。

彼らは自分を聖人君子だとは思ってはいなかっただろう。

美化された人間は私たちと同じ人間だったのだから。

ある、と認めたら、認めただけで、その感情の存在を認知しているので、無自覚に選ぶということがなくなる。

 

ないものをつかむことはできないが、あるものをつかむことはできる。

つかんだものをどうするか。つかまなければどうするか。

処置は自分で自由にできる。

 

聖人君子と極悪人は表裏一体。

聖人君子は極まった愛を選び、極悪人は極まった暴力を選んだ。

真逆のようだけれど、彼等は自分のなかにある感情という生き物の、愛か暴力かを自ら選んだだけ。

聖人君子が極悪人になったかもしれない、極悪人が聖人君子になっていたかもしれない。

自分の中に存在すると認めなければ、選び取ることはできない。

むしろ、自分が感情にもてあそばれる。

感情を自在に選んで取捨選択するのではなく、感情に選ばれて翻弄される。

 

その感情があると認めたとき、自分が聖人君子と極悪人のどちらの素養もあるとわかったとき、選びたい方を選べる。

選べない、認められないなら、自分が感情に選ばれる。

もっともふさわしい感情にコントロールされ、支配される。

 

無自覚、無意識に暴力をふるう人間の一部は、感情に支配され、感情にもてあそばれている。

特定の感情が生きていることを存在証明するために、自分に認めさせるために、自分自身をつかって主張をつづけるためだ。

 

感情が生きていて、自分に認めさせたくて暴力的になるとわかり、どんなに醜くて残酷でひどい感情だと思うものも受け入れたら、私は喜びを感じた。

そうしたら執着だろうがなんだろうが、好きにしたらいいじゃないか、ととたんに細かいことがどうでもよくなった。

どうでもいい、と呆れたわけじゃなく、そうだ、好きにしたらいいのだ、どのような感情も自分なのだからと明らかになった。

 

そのうえでどのような感情を選ぶのかは、自分の選択だ。

どのような意識の方向性、どういう感情、どういう生き方をするのか。

感情は選ばれようとはしていなかった。ただ認められればそれでよかったのだ。

 

認められ、喜びを得たさまざまな感情たちは、私があることを否定しないかぎり、選ばれなくても従順に私の感情としてついてくる。

私が否定して、あの醜いものは私のものではないと手ひどく突き放せば、私自身の内側から暴力的な主張をしてくるが、それをしないかぎり、私にかみついてくることはないだろう。

もしかまれれば、また私が否定しているということだから。