引用記事
子どもが「盗み」をした!親なら何を伝える?吉岡家の場合 | ハフポスト
150円を盗んだら、その子供の一生は150円の価値しかない。
私がそのような脅しを受けたら、こう思うだろう。
「私は150円を盗んだから150円分の幸せしか手に入らない。
もうこれからどんだけがんばっても150円以上幸せになれないんだ。
だったらもうどうなったっていい!こんな人生サイアク!
もうどんなことしたってどうせ150円の人生ですもの!
どうせがんばったって150円以上幸せになれないって言われたらかもうどうでもいい!いい子ちゃんになんて絶対ならない!」
「親にそう言われたから」と言って無責任になり、自暴自棄になるだろう。
人生にも自分の行為にも自分自身にも無責任になって、一生この罪を背負って生きて苦しい思いをするんだったら、みんなもおなじように苦しめてやる!
私だって幸せをたくさん奪われてきて、盗まれてきたのに、なんで私は盗んじゃいけいないの!?
みんなだってだれかの幸せを盗んで奪って傷つけているくせに!なんでお金や物を盗んだ人だけが悪くて、心をいじめて幸せを盗む人は犯罪者じゃないの!?
心を傷つける人もだれかの幸せを盗もうとする人も犯罪者のくせに、なんでお金を盗んだら犯罪者になるの!?そんなの不公平だ!
だったら私から幸せを盗んだ人たちから私が奪い返すのはいいの!?
あいつらだって犯罪者じゃ!悪いやつらだ!私から幸せを盗んだんだから重罪だ!!
家族から保育園から小学校の教師やクラスメイトすべてが私にとっては悪い奴らになるだろう。
150円盗もうが、お菓子を盗もうが、幸せを盗もうが、同じ。
なんで形があるものを盗んだら犯罪者で、形のないものを傷つけて盗んで奪っても犯罪者にならないの?
150円を盗んだ人がだれかに後ろ指を差すとき、後ろ指を指した人だって盗みを働いている。
「盗みをはたらいた悪いやつは幸せになっちゃいけない!」
そうやってお金を盗んだ人から幸せを盗んでいる。
同じ窃盗行為じゃないか。
自分たちは悪いことなんてひとつもしていないのに幸福ではないんだから、おまえは他人の幸福を奪った悪いやつなのだから、苦しむべきだ!自分たち悪いことをしていない人間よりも幸せになるべきじゃない!と?
子供が盗みをはたらく原因になった大人たちは罪に問われないで、なぜお金や物を盗んだ人だけが罪に問われるのか?
盗んだ人に後ろ指を差して、おまえは幸せになっちゃいけないと幸せを禁じるのは幸せを盗む行為だし、そうして盗まれた人はまた人のものを盗むようになる。
そりゃそうだ。されたからされ返す。ずっと受け身なのだ。
やられたんだから自分もやっていいだろう、と。
悪いやつらは幸せになっちゃいけないと幸せを奪わえば、自分を悪いやつにしたやつらに復讐しはじめるだろう。
自分が悪いやつなら自分から幸せを奪ったやつらだって悪いやつ!だから奪ってもいいんだろ!と、復讐がどんどん数珠つなぎにつづいていく。
150円盗んだら150円分の人生にしかならないというのは、盗みをやめさせたい脅し文句なんだから、お金ではなく盗みそのものをやめればいい。
お金を盗まなければ、お店のものを盗まなければそれでいいなんて、そういう話じゃないでしょう。
盗みそのものがいけないのなら、他人の幸福を盗むことだって窃盗だろう。
盗みそのものをやめるには、自分で自分の幸せに責任を持つこと。
親に幸せにしてもらおうとしない。
親に愛情を注いでもらおうとしない。
親になにか買ってもらおうとしない。
親になんの見返りも求めない。
親から見返りを求められても返さない。
親に言われてもいやならやらない。
親がどれだけお金をかけてやったんだと言っても借金のように思わない。
他人になにをしてもらっても借金のように思わない。
自分から何をしても貸しひとつと見返りを要求しない。
見返りを求める愛情はなく、愛で生きる。
「悪いことをしたやつは幸せになっちゃいけない」というのは、自分が悪い人になれば幸せになることを禁じるし、だれかが悪い人になればその人が幸せを没収し禁じるということだ。
これだって幸福の窃盗である。
残念ながら、だれがなにを奪おうと、それに怒ることはできても、責めて幸せを没収する権利は人間にはない。
司法にも。国にも。 裁判所だってそういう権利はないからしない。できない。
だからすべての犯罪者は死刑にすればいい!とむやみやたらな主張も出てくる。
自分は悪いことをしていないんだから悪いことをしたやつは幸せになっちゃいけないと抑えつけるのは、幸せを盗むことだ。
悪いやつを正義で成敗している気になっているが、やっていることは幸せを奪うこと。
犯罪者が犯罪者に後ろ指を差すなんて、滑稽だ。
同じ穴のムジナである。
人間は多かれ少なかれ、幸せを盗んでいる。
お金や商品を盗まれたら経営が立ち行かなくて、店が潰れて、店員が露頭に迷う。
なら心を傷つけられ、幸せを感じるなと禁じられ、幸せを盗まれ、喜びや楽しみを奪われ、心が立ち直れなくて通常の生活さえ困難になることは犯罪ではないのか?
形があろうとなかろうと、人の人生を破綻させているじゃないか。
お金や商品を盗むことも、人から幸福を奪おうと虐待することも。
形がないものを盗んでも罪にはならないのなら、形あるものを盗んで罪になるのは不公平だ。
盗まなくても奪わなくてもいいように、幸福感を奪い合うことがなくなるように、自分の幸せには自分で責任をもつことから、犯罪を減らしていくことになる。
犯罪者だから一生幸せになるな、悪いことをしたんだから被害者たちのことを思えと責めたてていたら、その人はまただれかから幸せを奪う行為を再犯しかねない。
責めて怒って脅すだけで犯罪が失くなるならとっくになくなっているのに、未だになくならない。
幸せをどれだけ没収したって、幸せがないなら人はまた盗む。
だったら自分が幸せの資本になる、幸せにならなければいけないんだと、自分の人生に責任を持って生きれば、人から幸せを盗まなくてもよくなる。
こういうふうに単純な話だけでは済まないこともあるが、子供のころに盗んだからこれ以上幸せになれないと思うことは、
「自分のようにおまえも幸せになるべきじゃない。悪いやつは苦しむべきだ」
と自分の価値観で悪いと思うことをした人間がいたら、同じようにその相手から幸福を盗むのだから、自分で自分を幸せにすることに責任をもったほうが、社会的にも周辺の人たちにとっても、盗まれないほうがありがたいというものだ。
それで幸福の窃盗がひとつ減るのだから。
私はこどものころ盗まれ、盗んだ立場からこの記事を書いた。
なので、どっちも擁護できない。
盗みを正当化することもしないが、盗みを悪だと成敗することもしない。
正当化も成敗もどっちもどっちだから。
それに、盗んだことは事実なのだからそれに関して言われたらそうだと受け入れる。
だけど、後ろ指を差されたくないと、過去のしたことを理由に幸せから逃げて、自分や他人から幸せを盗む言い訳にはならない。
自分が幸せになって幸せをおすそわけできるほどになれば、だれかが盗みを働くのを抑止するこもできる。
幸せになってはいけないのではなく、盗んだもの以上に自分が幸せになってまわりを幸せにするだけの力をつけたほうが、多くの人が幸福を盗まなくてよくなる。
批判で盗みはなくならない。
幸せが盗みをへらしていける。