@自分こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

デブという言葉を自分が差別だと解釈するのをやめる

「デブって言わないで」と「デブしね」はどちらも差別

 

 

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言葉や行動をべつべつに受け取らないで存在そのものを受け止める

 


「デブって言わないで」「デブという表現を使わないで」は存在の表現差別

 

自分にデブという表現を使わないでほしい、と私も小学生のときに思っていた。

しかし、デブという表現になんとも思わない人もいる。

 

ということは、いままでの自分は、デブという表現言葉を「悪く解釈する」していたのだった。

 

デブという言葉の表現を相手に禁じると、相手に自分を気遣ってほしい、自分が傷つく表現を変えてほしい、と要求することになる。要求には支払いが伴う。

 

でも、自分がデブという言葉で傷つくなら、傷つかない解釈に変えれば、なにを言われても傷つかなくなる。要求もしないので、相手に支払要求させる口実を与えずに済む。

 

デブ=傷つく言葉、と解釈して受け取るために傷ついているんだ。

自分の解釈は変えずに、相手に気を遣ってほしいというのは、自身を気遣うためにする要求だ。

 

それに、自分の自由を守るために、相手から表現の自由を奪うことになる。

特定の言葉を使う表現をする人への差別に当たったり、自分ひとりにたいする気遣いを要求する意思コントロールに当たる。

 

叔母から家の中で「センコウ」という言葉を使っただけで、理由も問わずに「そういう言葉を使うな!」とピシャリやられて、小学生ながら「なんだこのクソババア」と私の怒りを叔母が買ったのは言うまでもない。

 

このように、自分が気に食わない、社会的に面子がわるい、相手を不快にさせるから、傷つけてしまうかもしれないから、などの理由でいきなり「やめて!」と要求されたり「やめなさい!」と禁止されると、禁止され、表現の自由を奪われたほうは、言うとおりに言葉の表現こそ取り下げても、こちらの自由を奪った相手として認識される、という支払いが伴う場合もあるのだ。

 

私も「自分のこの表現を使わないでほしい」と言われたら、私がどんな表現をしようと私の自由だ、と言いたくなる。

 

言葉の自由を奪われるということは存在否定と同義である。

だから相手がどのような言葉を使おうとも、表現の自由を奪うことはできない。

こちらの表現の自由まで奪われてしまうからだ。

 

また、その人のまえではその表現を使ってはいけないというのも、自由に存在し表現することを禁じられ、監視されることになる。

 

それはとても息苦しいものだ。その結果、買わなくていい怒りを買ったり、規制した相手を傷つけてしまいかねない。

それでは差別する人間とやっていることが変わらなくなる。

表現の自由規制は、相手を支配監視し、存在をあるがまま認めず、排除することと同じなんだ。

 

私が禁止される側だったら、なぜこの人ひとりのために、私がそこまでしなくちゃいけないの?こちらに要求するなら、あなたはなにを支払うの?と言うかもしれない。

 

要求するなら代償を支払うことになる。

だったら、デブという言葉を言われても、悪く解釈して受け取る人がいなくなれば、デブという言葉を使う人ごといなくなる。

 

反応する人がいない言葉になれば、使う人もまたいなくなる。

悪意を表現するためにデブという表現以外が使われるようになるだろうが、それすらも同じことが言える。

 

 

「デブ!」「デブしね」は存在差別、体型差別

 

自分が気に入らない存在を目の前から排除したい、自分の価値基準で低い評価に当たるので、無価値、低価値、市場の需要にそぐわないとして排除しようとすることだから。

 

しかしこの市場価値需要の正体は個人の市場価値観念である。

 

個人の市場価値上、その人にとってデブは価値がない。

なので、社会的に価値がないので存在する意義はないという主張なのだが、言葉にしてイメージにしてみれば明白なように、あまりにもちっさい市場である。

 

地球規模で見たらアリよりも小さい市場である。

個人の市場が社会の市場規模に含まれても、社会の市場や世界各国の市場が、個人の市場に規模と同規模、なわけがない。

 

個人の市場価値観念は、あくまで主観という小規模かつ一方的な、好き嫌いや偏見や差別、これまでの経験や感情がふんだんに加味されている、色眼鏡市場なため、観念と表現した。

 

ありのままに、客観的に、俯瞰した視点と広い視野で、世界、日本社会、自分の周辺の集団、自分とは正反対の集団、個人個人の需要を調べた上で価値がないと言うなら「なるほど論理的だ」である。

 

だが、自分の主観ひとつで見て、自分の世界という狭く小さいものさしで判断するにはあまりにも視野狭窄で、客観的な市場価値とは言えない。「ただの個人の好みじゃん」【完】である。

 

 

デブという言葉を差別していないか?

 

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ノンジャッジメント「あなたってそういう人」

 

 

自分が気に入らない表現だからと禁止すること。

自分が気に入らない体型だからと排除しようとすること。

どっちもどっちで差別やコントロールに当たる。

 

デブ、という言葉には価値がない、人を傷つけるという意味をあえて色付けて、さらにそう自分自身に解釈させているのは自分である。

 

私も、デブという言葉の表現を差別していたのは自分だったと気付いた。

 

デブ、という言葉が社会的に「悪意ある言葉」として認知されているとして、それを悪意ある言葉として受け取るのか、「そういう言葉をあえて使う人そのもの」として受け止めるのかは、雲泥の差がある。

 

前者は悪意ある言葉だけを受け入れて、その人の存在を否定している。

その言葉を使わなければいい人かもしれないのに、と自分の好みを押し付けている。

 

そうではなく、後者のように、「悪意を込めて言葉を使うなのだな」と存在そのものを認めて受け止めたほうが、自身が楽である。

また、その人がその人の言葉に塗りたくった悪意はその人の中に留まるり、こちらはその人が「そうしたいからした」ことだけ認めることになるので、差別という暴力の被害はまったく受けない。

 

結果、こちらの意思力は奪われず、じゃあこの人とはどう付き合おうかと、自身の対応を冷静に選択判断できる。

 

悪意だけを受け取り、そういう表現をする存在を否定すると、悪意がこちらに入ってきてしまうので、悪意をもっているその人として受け止めて、自身の手前で悪意を跳ね返すのが有効な対策なのである。

 

こちらが相手に反応してやめてほしいなどと言えば、また悪意に悪意を塗りたくってやんややんやと反応を面白がり、悪意を広め、被害を拡大させるための共犯者にさせられる。

 

彼らの被害妄想に付き合う時間などあなたにあっただろうか?

それも学び体験といえばそうだが、もっと楽しくわくわくする体験を選ぶこともあなたならできるのではないだろうか?

 

彼らの成長のためにも、ほかに被害がいかないようにするためにも、差別を減らすためにも、悪意に反応しないであげるほうが親切である。

 

 

要求じゃなくてお願いをする

 

「そういう言葉やめて!」「ひどい人だ!」ではなく、自分のところで「あなたってそういう人なのね」と受け止めてれば、悪意ある差別を自分の手前で鎮火できる。

 

その人の人格や性格を否定しても、本人が手放す気がないなら、他人が好き勝手変えることはできない。

 

「あなたのことは愛しているけれどその言葉は嫌い」

「あなたのその言葉が嫌い」

「その言葉にはとても腹が立つ」

「そうね(あなたってそういう人よね。差別するなら二度と付き合わないわ)」

 

怒りで返さずに、冷静に自分がどう思っているかを伝える。

ときには感情が荒ぶることもあるだろうけれど、信頼する相手なら関係は壊れないだろう。

言いたいことを素直に言えないほうがよほどその人間関係は危うい。

 

しかし、こちらの気持ちを伝えるだけなら、こちらになにか要求されることもないし、代償を支払わなくても良くなるし、望み通り悪意は自分の中に入ってこず、相手への対策もしぶとく打てる。

 

差別をなくしたいなら、自分のなかからまず差別をひとつずつ取りのぞいて、手放していく。

そうすれば差別に反応することもなく、差別が意味を持つこともなくなり、ひとりひとりの意識に差別が存在しなくなることで、差別はなくなっていくのだ。