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【暴力戦争からの離脱2】自分を被害者にする人は他人にとって加害者になる

 

 

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母のしたことは暴力であろうとも不幸であろうとも、母自身が結果を受け止めて、自らの原因を取り除く責任が母自身にある。

 

また、母と弟と再婚相手に起きたことも、私には関係のないこと。

三者の間で起きたことは三者の間でそれぞれが責任をもち、解決させていかなければいけない。

 

三者が首を突っ込んでかき回すことではない。

彼らがきちんと問題に向かい合う準備が出来ないのなら、他人が口をはさむべきではないのだ。

 

 

母親の再婚相手→私への性的被害

 

母親の再婚相手は、私に向かって「自分とセックスをしようか」というセクハラ、性的暴力と取られる発言をしたことがある。

 

「お母さんと子供を産んでもいいか?」と性的な場面を想像しながら、私に言ったことがある。

 

それ以前から、性的なことで私に絡んでくることがあり、まるで女を性的な道具として見ているようないやらしい男だった。

 

だが、これも、同じ土俵にあがらなければいいだけのこと。

この男の土俵から下りて、相手にしないこと。

 

私が土俵を下りたら、一人でぶつくさと言っていることになる。

私はそれを傍観している。

 

これは母とこの男の問題だから。

私にとってこの男は他人で、家族ではない。

いつまでも、どこまでも、他人である。

 

母がこの男を連れてきたとき、ものすごく嫌な予感がしたが、私は言わないことを選択した。

このことに私は責任を感じていたんだけれど、これも母が私を加害者たらしめているから感じていたこと。

 

私はたしかにこの男を危険人物だと察知していて、こうなるだろうなという予感が的中した。

 

言うことを選択することもできたけれど、私はなぜか言わなかった。

こうなるくらいなら言っておけばよかったと、何度も自分を責めた。

 

「私が言わなかったからこんなことになったんだ」と、母だけではなく、ほかの家族を巻き込む騒動を起こした母と母の再婚相手に憎しみさえ抱いた。

 

私は当時、言わなかった。中学生だった。

今ならはっきりと言うだろう。

 

「やめておいたほうがいい。

こういう予感がしたから、責任を取る覚悟がないならやめておこう。

私は忠告した。それでもやると言うなら、自分の責任だということを忘れるないで。

私はこれを言ったことを忘れない。なにか起きたらすべて自分の責任だから。

だれもあなたを助けないし、同情もしない。すべて自分の責任としてやりなさい」

 

あの男を受け入れるも受け入れないも、母の責任である。

母がたとえ家庭内暴力の被害者になったとしても、母の責任である。

 

私が予感して忠告したところで、どうなったとしても、その人の責任に違いない。

私が忠告しても、聞かないやつは聞かない。

 

私は当時、母の幸せを思って、母の幸せを邪魔したくなかったからだと思っていたが、いま思えば、どうなろうが母の責任だと思っていたのかもしれない。

母のしたことに私が責任を取りたくなかったのかもしれない。

 

その男を引き入れたのは母だし、当時中学生の私に追い返す権利はない。

いっしょに住んでいたわけではなかったし、どうなろうが母の勝手だと思っていた。

 

「そうか、この男をこの人は選んだんだ」

それがありのままに見た結果だ。

 

そして私は言わないを選択した。

私は、危ないと知っていた。

 

けれど、母はその直感よりも愛されること、利己的な目的ばかりを追求していたため、心の目が曇っていた。

私はただ単純に、母の学びをありのままに認めた。

 

母が選んだ男をありのままに見て、感じて、危険を知っていた。

でも言わなかった。母がそれでいいならいいだろう、と。

母の人生、私には関係がないのだ。

 

そう、関係ないのに、母はいつまでも私に依存して、私を加害者に仕立て上げ、自分はなんてかわいそうないじめられっ子で不幸で、と被害者の顔をしながら加害者のポジションに立っていたのだ。

 

それに、危ないからやめろといって聞くような女なら、そのような男を見抜けないはずがない。

最初から自分で見抜けないでどうする。

 

母が私との生活よりも男との生活を優先したことを妬んでいたわけじゃないし、母のことなんてどうでもよかったわけでもない。

 

私がそれを言ってどうするの?なにか変わるの?と思っていた。

私が言ったところでなにも変わらないでしょうと。

 

私が言ったところで人の話を聞く母ではなかったので、言いたくなかった。

自分の直感を信じていなかったし、自分の言葉を軽視していた。

 

あちこちで問題を抱えていて揉め事は勘弁してほしかったし、これで母とも仲良くやっていけるならいいかな、とも思った。

 

母のご機嫌を損ねて、母と仲良くできないことが当時はいやだったので、言わなかった。

 

いまなら言える。なんだって言える。

だって母と仲良くしたい気持ちなんてもうないもの!

 

もう母のご機嫌伺いもしないし、母を気分良くさせようともしないし、母の被害者意識を助けてあげることも、もう一切母を助けない!

 

私は母の被害者でもなければ加害者でもない!!

母やだれかが現実逃避する手助けなんて一切しない!

 

とっとと自分の被害者意識と対峙しろ!

被害者意識が加害者意識と同じだと気付け!!

 

もう母や弟を攻撃する気持ちもない。

私は被害者でも加害者でもないもの。

 

母と仲良くしていたいし、私の言葉なんて、とどこか臆するところもあったのだ。

でも、過去はもう過去。私は私の直感と言葉と想いを大切にする。

 

もう私はだれの被害者にもならない。

だからだれかの加害者にもならない。

 

出来事をどう受け取るか。それらはただの解釈に過ぎない。

個人が色付けした解釈にすぎない。

 

被害者なんてかんたんに加害者になる。

いじめはかんたんに起きる。

だからこそ、そんな土俵には二度と乗らないんだ!!

 

 

 

言わないという学び


私は言わなかった。単に言わなかった。

それを後悔する必要はない。あれも学びだ。

 

言わないとこういうことが起きるんだな、と体験したのだ。

言わないでいると、「自分は悪くない」と人は責任から逃れようとするのだと知った。

 

だからこの体験を活かして、自分の直感を信じて、自分の想いと言葉を大事にして、愛と光でもって相手に伝える。

 

伝えたら、あとは見守る。

どうするかを選択するのはその人の意思に委ねられる。

 

どうなろうとも、手出し口出し同情もしないで、学ぶ様を見守る。

その人がどうなろうとも、私は責任を負わない。感情を拾ってあげたり、同じ土俵にはあがって、自分を被害者にしてだれかを加害者にする暴力には一切応じない。

 

私は言ったけれど、その人には伝わらなかったのだから、学ぶ必要があったのだ、と思えばいいのだ。

 

私も学び、母も学んだ。

私は自分の直感と言葉がどれほど大切で、言わないことで相手の責任逃避を助長するかを知った。

 

今後は、私の直感と私の言葉を大事にして相手に伝えたうえで、見守る。

 

依存もさせない。同調しない。

冷たく思われようとも、彼らの愛と光の本質を信じる。

 

人間の彼らを信じるんじゃない。

本質である魂を信じる。

 

 

言わないことが悪ではない。

見守ることもまた愛であるのだから、言いたいなら言えばいいし、言いたくないなら言わなければいい。

 

私は言わないことを選択して合わないなと学んだのだから、今後は言う、伝えるを選択すればいいのだ。

 

こういうのもまた主体性というのだ。

自分のことは自分で反省して、選択し直す。

後悔ではなく、どんな体験も活かし、自分の行動、意識を選択し直す。