@自分こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

家族がサル山に住んでいたから山を降りてゴリラの生き方をすることにした

サル山一家

 

サル山一家。

それは動物園のサル山を指す。野生のサル山ではない。 

 

日本にはサル山一家とゴリラ一家に分類できる。

自分が気に入らないと思えば直接叩く暴力サル(ジャイアンタイプ)

強いサルの力を借りて弱いサルを叩きたがるサル(スネオタイプ)

 

飼育員に制限された餌を与えられるサル山一家。

 

それは、より多くの取り分をせしめ、ボスとして支配者に成り上がろうとする存在を生む。

 

家庭という小さな檻の中で、暴言、虐待、競争、勝敗、上下関係、支配被支配、ありとあらゆる暴力が人を動物園のサルへと変える。

 

私は自分のこれまでの人生を振り返ったとき、常に、動物園のサルが取る、暴力に依る上下関係が必ずあったことに気付いた。

 

 

本家サル山一家

曽祖父は木刀を持ち出して、動物を叩き殺したとか、怒鳴ったり手をあげたりと、それは乱暴で、手がつけれられない独裁者だった。

 

財産を独り占めにして、妻だけをかわいがった。

食事に関しても不潔で、食器を洗わずに水に付けて使用するなど、貧しい頃の癖がまるで抜けていなかったそう。

 

曽祖父の次男にあたる祖父は、いままで食料(心や物質的な自由、感情表現、自己主張)の取り分が少なかったり、親はお金を浪費するのに、子供たちは制限されて不自由な暮らしだった。

 

曽祖父はとても乱暴者だった。暴君だった。

話と写真を聞くと、私なら闇討ちも考えるのではないか?と思える恐い顔つきだった。

 

祖父はそのような暴力に満ちた家庭で育った。

祖父とそのきょうだいは、愛ではなく暴力で生きてきた。

 

暴力にたいして疑問すら感じないほど、頭は鶏頭だったらしい。

祖父にはまともなきょうだいもいるが、祖父を含め暴力的なサルが多いのは事実だし、祖父の兄は曽祖父へ犯罪行為すら行えるサル山だった。

 

 

ゴリラの愛の接し方を知らない暴力のサル

 

強いものこそが勝つ。手段は選ばない。

まさにサル山のサルである。

曽祖父がそうだったために、祖父たちは人と接する方法は暴力以外を知らないようなサル人間と相成った。

 

けれど、祖父はあまりにも家族に暴力を振るった罪悪感を、半身不随という形で自分を罰したらしい。

脳の病気をして身体がほとんど不自由になった。

暴力は必ず自分に返ってくるのだと自らに教えていたかのようだ。

 

 

暴力というガラクタに埋もれる愛

 

曽祖父は本家に婿入りに、突然、土地持ち金持ちに成り上がった人物。

成り上がり。実力ではないのに婿養子になったことで、貧乏人が一晩で土地と金を持った。

 

曽祖父は暴力の権化だった。

うちの家系図を調べると、それはもうこんがらがった養子縁組を乱立させていた。

なかには非嫡出子扱いの子供もいた。

曽祖父の養子には警察官がいた。

 

本家ではとてもまともで誠実な男性だったそうだが、本家では暴力者以外はしぶとく生き残れないらしい。

祖父は、彼がいればもっとまともな家だっただろうとぼやいたことがあると聞いた。

 

警察官だからまともだ、などと色眼鏡をかけて言う気は毛頭ない。

私が母親の暴力事件を通報しても駆けつけてくれなかったため、私は親と弟を、再婚相手のDV見捨てたと批難された。

 

警察官はただの職名。人間は人間。

サルタイプかゴリラタイプのある人間だ。

 

だが、本家のその彼以外は、祖父が病気になっても病院には連れて行ってくれなかったそうだ。

 

そんな愛情も愛もへったくれもない・・・産んでもらって生かされたことは愛ではあるが、それを上回る暴力は、愛を埋もれさせてしまう。

 

その愛を気付くためには、ガラクタ山の暴力を一掃しなければならない。

暴力への恐怖と立ち向かい、受け入れ、自分自身を許していくというプロセスを非常に多く経ることになる。

 

しかし、祖父はすっかり暴力のサル山一家のやり方に抑えつけられていた。

祖父だけではなく、祖父のきょうだいのほとんども、他人や自分にたいして、暴力、暴言、傷つけ痛めつける方法でしか、人と付き合えない状態になった。

 

暴力は暴力を生む。

しかし、本来なら自分が家庭の暴力の連鎖を自分の中で止めるべきだし、止める力が在るのだ。

 

 

肉体の自由と心の呪縛

 

このような家庭で育った祖父が結婚して当たらしいサル山のボスザルになったことで、食料やお金の取り分をもっとも多く独占した。

祖母や子供への取り分を奪い、自分こそがボスザルだ!とおおいばり。

 

祖母や子供たちは恐怖と暴力で支配されていた。

すっかり恐怖を植え付けてられて、祖父に逆らえないようにされていた。

祖父は自分が手に入れた地位、サル山のボスの座を脅かされる恐れ、弱いものに負ける怯えがあったので、暴力によって家族を支配することで、逆らう気力を根こそぎ奪った。

 

祖母と母、叔母、叔父は、自身にたいする劣等感や無力感や無価値感、絶対に勝てないという恐怖心や屈辱、この家庭に生まれていたことへの敗北感、強いものに必ず勝てる強いやつになってやるという下剋上の心理など、暴力的な恐れに支配されていった。

 

家庭というサル山で、祖父が上位、優位、勝者、絶対のボス。

自分がボスなので逆らうな!と家族を脅しつづけていた。

 

そうやって育てられた家族、一緒に暮らす家族が愛に生きられるわけもない。

祖母は祖母で、弱い子供を手で叩いてしつける、お金で祖父の暴力を回避する、お金への不安をいつも漏らして恐れを打ち消す、子供が逆らえば強い者を利用してでも抑えつけるという、卑劣な手を使うようになっていた。

 

私もちいさいころ、祖母に叩かれたので、怖かった。

だがあるとき、私は窮鼠のように祖母を叩き返して、それからやり返してこなくなったことから、暴力には暴力で返せばいいのだということを学んでしまった。

 

自分を守ることはできたが、子供が暴力でやり返すことを覚えるということは、いじめに発展する可能性が高いのだ。

私は学校でいじめられたので、暴力でやり返すか、教師の権力を使って気に入らないクラスメイトを叱ってもらおうという暴力を無意識に使っていたことを自覚した。 

 

母は祖父を嫌っていたが、それは祖父に逆らえなかった、勝てなかった自分を嫌っていたのもあるんだろう。

だから男性とはとくにうまくいかない。競争して勝とうとしてしまうから。

 

また、祖父同様に、暴力に分類される、依存、共依存でしか人と接する方法を知らなかった。

心に暴力を潜ませる、家庭からいらない子供扱いされていた、愛情に飢えた依存症気質の父親と無線で知り合い結婚した。

 

暴力しか知らない両親は優しさやあたたかな愛で接することを知らず、最後は、父親の殺人未遂により離婚。

母の再婚相手も施設で育ち、親からのあたたかさ、愛に飢えていた。

 

私の父だった人も、母の再婚相手も、自分の生き方、人との接し方に真剣に向き合わず、成長ではなく現状維持を選びつづけ、愛ではなく暴力でしか生きていなかった。

 

だから、その成熟具合にふさわしく、結果はDVで離婚である。

 

母からの暴力も覚えている。

母もまた、私の上に立ち、子供を支配しようとした。

思い通りに動かして逆らえないようにコントロールしようとした。

 

祖母にわがままを言えば、祖母は強いサルである母を呼び、弱いサルの私を施設に入れると脅しつけて、無理矢理からだを引っ張って恐怖を植え付けたこともある。

 

祖母を叩き返したように、何度も脅されて恐怖で記憶がふっとんだときに、私は母を突き飛ばしたそうだ。

 

 

暴力には暴力、愛には愛が返ってくる

 

暴力で人を支配するから暴力が返ってくる。

どうせ仕返しをするなら愛で返せばいいのに。

恐怖で人を制するということは、それだけの恐怖が自分に返ってくるのだ。

だが、私は母よりも叔母の暴力に苦しんだ。

 

けれど、暴力を振るう人はサル山のサル。

ボスザルに暴力で虐げられ、いまだに恐れに支配されたサル山のサルだったのだと気付いたら、どうでもよくなった。

 

しばらく叔母の暴力の記憶に悩んでいたが、サル山で育ったサルだから暴力で自分が気に入らないことを排除しにかかったこと。

 

気に入らないこと、恐いと思ったこと、その人にしてほしくないと思ったことを穏やかにさとすのではなく、「やめなさい!!」「ダメ!!」とキツイ厳しい言い方で、理由も聞かずに自分正義!!という暴力を振りかざすしか方法を知らなかったのだと。

 

なんか哀れだなあと思った。

サル山から降りて家族やいままでの人を振り返ると、なんでいつまでもサル山でボスザル気取りでいて、いつなんどき暴力で仕返しをされるか恐れているのに、暴力に執着するのか、と思う。

 

見えてないだよね。自分自身が。

自分に原因があると思って、自分の中を見ればそんなことにはならない。

見たくないものがあるから見ないんだ。

見たくないものがあるって知っているくせに見ようとしない。

 

見れば出てくるものがあるって知っているから、防衛本能が働いてみようとしないんだ。

だから方法を探そうともしないんだ。

 

暴力に囚われたままの心

祖父は肉体こそ自由になったし、物質も思いのまま手に入れただろう。

しかし、心は曽祖父というボスザルに恐怖で支配されたままだった。

祖父の家族についても同様だ。

 

恐怖と暴力の支配から解放されても、抑圧されていた暴力への恐怖に囚われたまま。

新しい家の新しいボスザルになって、二度と脅かされない自分にとって安心安全の場所を、再び暴力で作り出してしまった。

 

暴力で作り出されたサル山一家には、強いものが威張り弱いものを抑えつける、逆らえないように力で制する。

 

力の強いやつが勝ち、そうでなければ負けて屈辱を味わう。

家庭では優劣、上下関係、恐怖と支配だけがあり、愛も愛情も愛も欠けていた。

 

勝つことだけが正しいかのように感じ、だれかに負けることに恐れる。

恐れるから暴力を使う。手段も選ばなくなる。競い合って蹴落とし、個人(サル)市場価値で優劣を付け、より優れたものを手にしたがる。

 

上下関係でテリトリーを争い、下のものが上のものに逆らえないように恐怖で支配し、逆らうなら排除にかかる。

 

下のものは恐怖しながら上のものを引きずり下ろす算段を考えて、力をつけて目上の排除にかかる。

これが暴力だ。

 

みんながみんな、利己的な、自分さえ安心安全で、得をすればそれでいいという、まさにサル山を模した人間同士が暮らしていた。

この日本では高度経済成長よりずっと以前から、このサル山の暴力で人間関係が構築されている。

 

強いものは威張り弱いものを徹底的に脅しつけ、力を奪って押しつぶす。

弱いものは強いものの力を利用し、自分では敵わない相手を叩きのめす。

戦争で必要だった力は、いまや暴力という残骸だ。

 

サル山にいるから、ボスザルに逆らえないと恐怖におののく。

ボスザルに逆らえない、けっして敵わない、だから従順に媚を売って自分を守ろうとする。

 

自分より強い者が絶対の正義で、こちらを悪として暴力を振るってくる。

自己主張や自分自身を持つことも許されず、その力も奪われて、やがて無気力になったり、精神的に落ち着かず、いつも安心安全を脅かされて生きる。

 

人を怒鳴って、暴力で自分を敬え、自分に従え、自分の言うことを聞けと脅す。

人に依存して、物に依存して、お金に依存して、どうやって自分を守っていくかばかり考えて、他人と共依存に陥る。

 

 

それでも育ちを言い訳にしない

 

サル山一家で育つことは、自分のテリトリーを脅かされないように、恐怖で自分の利己的なルールに従わせ、媚びないやつは排除する、そういうやりかたを自覚するまで習慣になってしまうということだ。

 

私の生まれた家、教育環境の保育園や学校、職場まで、これがずっとあったことにようやく気付いた。

 

自分の中からこのような暴力のルールを取り除かないかぎり、何度だって鏡の法則は発動しつづける。

このサル山のサルの生き方が嫌なら自分が変えるのだ。

 

 

私自身、サル山の習慣があることをずっと人生で示されていたのに、まったく気づかなかった。

 

こんな習慣があったことを自覚しないんじゃ、どこで働こうがどう生きようが、サル山の習慣からは抜け出せなかった。

 

そうしたら、いままで私よりも強いと思っていたサルたちの恐怖と支配からは抜け出せず、不自由な心のままで生きていくことになるところだった。

 

サルは暴力、ゴリラが愛とするなら、サル山で育った人はサル山から降りるときだ。

そしてゴリラの生き方を改めて自分の生き方とする時代に入っている。

 

サル山のサルとして育つと、まず主体性が育たない。

若者が叱られたくないのなら、中年以降の人間はもっと叱られたくないのだ。

若者だろうと中年以降だろうと人間は人間である。

 

自分のほうが目上だ、年上だという認識がある人間が年下から叱られたくないというのといっしょで、目上だなんだという理由で目下も叱られたくないのである。

 

人間同士、対等であるのに、目上だ目下だと優劣や勝敗をつけることは暴力であり、サル山のサルと同じ意識である証拠だ。

 

 

上下や優劣をつけるジャッジメントという暴力

 

私は若い人の味方もしないしおっさんたちの擁護もしていない。

どっちもサル山のサルとしての生き方に依存するのをやめたら?って言っている。

 

指示厨もそうだし、働いていればえらいと思うのもそうだし、役職とか地位とか年収とか見た目とか、なんらかの条件をつけて優劣や勝敗を決めて、暴力に依存するなって言ってんの。

 

サル山の生き方は共依存だから。

支配と被支配。勝者と敗者。

いつも恐怖に囚われて、他人がいないと生きていけない。

 

やることはサルマネ(親のマネ)だってのに気づきやしない。

暴力を振るう親に育ったからってサルマネして生きてなにをえらそうにしてないで、サルマネを自覚しようよ。

 

人生は「ボスザルの言うことを聞いていればいい」じゃねーんだよ。

いないんだよ!自分のボスなんて!人間同士に上下なんてないんだ!

 

サル山のサルみたいに、ボスザルに従って依存的に生きているうちは、主体的に、自分自身を生きてハッピー!なんて無理だから!!!

支配から抜け出して自分の生き方を自分で決められないなら無理!!!

 

恐怖に立ち向かう方法を自分なりに模索もせず、ただただ毎日暴力の鏡で自分や他人を見ることのなにが面白いんだ!!

 

私は恐怖に立ち向かう方法をいくつも知っている。

それは自分の中の暴力を捨て去って存在そのものを抹消したかったから。

 

恐怖に立ち向かわないと、手放す方法だって見つけられない。

だけど恐怖を植え付ける方法があるなら恐怖を手放す方法だっていくらだってある。
 

自分の中で暴力や恐怖と共存なんてしたくないから、それに立ち向かって愛を選ぶと決めた。

 

とっとと山を降りてサルからゴリラになろう!!!

ボスゴリラがどうでも、強いサルが自分を悪いと叩いてきても、無視していい!!

それに歯向かうんじゃなくて、恐怖を生み出す暴力というエゴを自分の中から手放していこう!!

 

暴力は自分の脅威になるものを叩くだけだ。

自分に都合のいいものを利用するだけだ。

 

それは、自分にとって安心安全を脅かすと思ったら、暴力(腕力、言葉問わず)で抑えつけばおとなしくなる思っている暴力しか知らないサルのやることだ!!

 

 

 参考URL

ボスザルは必要なのか? 野生のニホンザルにボスザルがいない理由

職員セミナー(山極 壽一 氏、平成29年5月17日開催) : 財務省

 

 

サル山から降りればそんな支配も征服行為もすべて無効になる。

同じ土俵で戦うんじゃない。暴力に暴力で返すんじゃない。

やり返すんじゃなくて、山を降りてサルをやめる。

 

動物園のサル山はあれで成立していても私たちはサルじゃない。

暴力ではなくゴリラのような愛の生き方を選べる、思考がある生き物なんだ。

猿人類から進化したっていうのにそんなところだけ退化してんじゃねーよ!!

まずは自分がサルの習慣があることを自覚してサル山を降りるところからだ!