pyo's roomのこの記事。そしてコメント。
私はむっちゃくちゃ反応した。
とくに、死を悲しむことを優しいとか、「はあ?」
開いた口が塞がらなかった。
イラァアアッ!!!!とした。
私が口癖のように言っていたのが、言い訳ばっかりするんじゃない!!
そんな暇あるなら行動しろ!!
悲嘆して言い訳して自分を甘やかすな!!
死を悲しい怖いと言って歩みを止めるな!!
なんか武士みたいだなあ武士みたいだなあとしばらく思っていた。
硫黄島の鬼兵が抜けても、やっぱり私って武士だった。
でも日本の鎧にはまったく興味ないんだけどね。
時代は好きだな、と感じていた。
私の中にいた人は、戦場で死ぬことこそがもののふ、という格言の人。
戦場で生きて、戦って、死ぬことがほまれ、だったそう。
戦場で死んだら戦場で埋められる。
森の近くや森の中に穴掘って、死体を埋める。
わざわざ家まで運んで埋葬しない。
土が盛られて、花を添えて。
かんたんな墓標・・・木の立板みたいなものはあったかな。
あとは大きめの石を墓標にしたり。
それが武士の宿命で、そうやって死ぬのが武士なのだ、という武士だった。
過去世かな。
時は安土桃山時代。
武士と武士とが武器を持って切り合い、命を取り合う戦国時代。
彼は心に酔う暇なんてなかった。
仲間が死んでも悲嘆したり、眠るときに安らいだりとか、そんなことしているいとまはなかった。
物音ひとつでも目をカッと開けて飛び起きて周囲を見渡し、武器を構えるほど。
幸福だね。ぐっすり眠れるって。
たとえ夜中でも、呼び出しがあれば戦場へ駆り出されていく。
馬に乗って、鎧をつけて、先陣を切って敵陣に突撃して、決して手加減することなく、情けや容赦もかけずに、無我夢中に戦い、生きる。生きて。生きて。生きる。
そして死ぬまで生きる。それの繰り返し。
彼は農民だかなんだかの出で、最初から武士ではなかったのかなあ。
奥さんは一人、息子が一人。娘は、いたかな?
だから、死が怖いとか、自分に立ち向かうのが怖いんですとか、言い訳をこまねいて進歩しない、愚痴や文句だけたれて自分は何もしようとしない人が本当に嫌だった。
耐え難かった。
もう、この時代はもう戦国じゃない、平和な国。
戦う必要はないし、生き急ぐ必要ない。
だけど、戦国では生きるか死ぬかで、毎日悔いのないように生きていたわけで。
なのに、現代人は戦う必要がないのに戦い、自分のや他人の人生をないがしろにしたり。
死や恐れに立ち向かう勇気がなくて、立ち上がろうともしないで、ガクガクぶるぶる震えて助けられるのを待っている人があまりにも多い。
そんななか、私の生き方って武士っぽいなあと思っていた。
たった一度の人生を生きて。生きて。生きる。後悔なくその日を生きる。
それができないと死んだときに後悔するから、毎日、何事も、立ち向かっていく。
ぜったいにあきらめない。ぜったいに恐れにくじけない。
当時の武士といったらもっと必死に毎日を、戦場を生き抜いていたんだなと思う。
ほんとうに毎日、命や生死が隣り合わせに感じられる時代だったんだなあと実感する。
そんな私にとって、死を恐れる人たちを見ると、イライラした。
生に執着するのではなく、毎日を生きる、自分を生きることに心を使えよ!
いつまでそうやって恐れにしがみついているんだよ!!
言い訳していないで動けよ!!って思っていた。
弱っちい、みたいな。
情けない、みたいな。
そりゃあ、私の中に戦場を駆け抜けた人々の霊が宿っていたら、私は武士っぽくなるし、言い訳をしたり、歩みが遅い人に対して、そんなんで生き残れると思っているのか!?人生をなんだと思っているんだ!!
と怒ってもなーんらおかしくないなあとわかった。
生きて。生きて。生き抜いて。死ぬ。
かっこいい~!やっぱこうでなくっちゃね!!
だってたった一度の人生で、怖い怖いとおびえて暮らしていたら、先人たちの想いを無駄にしてしまう。
私たちはひとりひとりが、様々な人生を何千と繰り返して、やっといまの自分が存在する。
この自分となるまで、幾千の人生があっただろう。
彼らが苦悩し、乗り越えて、戦って、生き抜いたからこそ、いまの私がいる。
地球の歴史の先人じゃなくて、自分だった過去の人達のおかげで、いまの私が恵まれた環境に生まれることができた。
その事実、その想いを無下にするなんて私はしたくない。
生きて。生きて。生き抜いて。死ぬ。
死は、解放だ。夢からの目覚めだ。
死が恐れを生むのではなく、己の心が幻想の恐れに囚われているに過ぎない。
恐れの正体をつかめば、恐れではなくなる。
幻想に立ち向かえ。幻想を恐れるな。
恐れの正体を掴みしとき、己の心は解き放たれる。