@自分こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

日常すべてがセックスでできている

お互いにセックスについて言うべきはいい、察してではなく伝え合うこと、お互いに高め合うことを主とする存在とか。
 いちゃいちゃの真髄、もっと深く、心と心を通わせる。
 
 察してではなく、真心をこめて伝える。
 精神、心、魂で通い合う。一体化する。心を一つにするために歩み寄る。
 信頼する。全幅の信頼を置く。存在をありのまま認める。
 
 もうひとりの自分、ひとりの自分同士のように認める。寄り添う。心をひとつにする。
 高め合う。絆を結ぶ。言葉を惜しまない。行動を惜しまない。
 自分がしてもらって嬉しかったことや喜びを感じられたこと、与えられた喜びを、また相手に返す。
 
 喜びや楽しみを与え返す。循環させる。
 セックスは男性だけが動くものではなくて、二人で高め合うもの。
 愛し合うもの。
 与え合うもの。
 
 「させてあげる」ものでも「してあげる」ものでもない。
 テクニックでもない。心理術でもない。駆け引きでもない。
 魂の振動!心と心の共振!身体と心をひとつにする。
 
 肉体を脱して、エネルギー状態をひとつにして、魂をひとつにする。魂のエネルギーの交流。
 高まったエネルギーをお互いに与え合う。
 
 
すべてはセックス。
セックスのために日常があるのではなく、セックスのおかげで日常があるわけじゃない。
日常がセックスそのものなのだ。
 
セックスが幸せな気持ちにしてくれるのではない。
セックスするその気持ちこそが幸福度を高めてくれている。すべては愛。すべては心。
そして、日常はセックスの連続。
 
親や友人との会話も、自分との接し方も、ひとつひとつの言葉も所作もすべてセックスなのだ。
セックスのために日常を盛り上げようとするのは間違っていた。
 
日常がセックスであり、セックスは日常で、ベッドinセックスは日常の内。
 いままでは、セックスのために、日常のイベントを盛り上げて、気持ちを高めよう!としていた。
 日常生活なんて重要視していないし、ベッドinセックスが”本番”と捉え、そのために日常はやらなきゃいけないものだと思っていた。
 
 でも日常もまたセックスだった。
 会話も、所作のひとつひとつも、表情も、心と心を通わせてエネルギーを高め合うための、”セックス”だ。
 
 ひとつひとつの行為が相手とのセックス。コミュニケーションがセックスだと思えばいいか。
 相手にかける言葉もセックス。会話もセックス。不快な相手ともセックス。ぜんぶセックス。
 
 肉体の行為はその延長線にあるものであり、締めのおじややうどんみたいなもので、特別でもなければ本番でもない。
 毎日本番であり、特別なセックスであり、本音で伝え合ったり、察してではダメ。
 
 人間関係がうまい人はセックスもうまい。セックスも人間関係だから、セックスもうまい。
 人間関係が下手くそな人間はセックスもへたくそ。
 
 自分と自分、自分と外の関係はセックスそのままを表している。
 セックスは、すべて、一切であり、人間関係であり、コミュニケーション一切であり。
 
 対人関係で察して欲しいとか、受け身だとか、自分の言葉を隠して演技をするなら、肉体の行為のときにもそうする。
 だってそれしか知らないから。
 
 自分が悪いのに他人のせいにする。
 それをいつでもどこでも繰り返す。
 
 それが自分だから。原因が歩き続ける限り、生き続ける限り、仕事関係の人とでも恋人でも家族でも自分でも赤の他人でも関係なく!自分が原因になり続ける。
 
 原因は自分だもん!他人じゃなくて自分だもん!源は自分だもん!
 私生活と仕事を、肉体や意識の上では切り離しているように感じられても、それは人格を切り替えているとか、肉体の緊張をほぐすとか、意識の面での話でしかない。
 
 いくら意識をその場その場で変えても、原因は何も変わらない。
 自分が別人になるわけじゃない。
 
 その肉体もその意識もその精神もその魂すべてが自分。
 その”自分”に境界線を付けられるか?
 
 どうやって割り切る?
 どうやって自分を切り分ける?無理だ。
 原因は物理的に切れないし生き続ける。自分の中から取り出して、手放さない限り。心は切れない。
どこにも境界線なんてない。
 
 たった一声、交わすだけでも、セックスのうちなのだ。
 日常の一コマ、一秒が、一瞬が、すべてセックスに反映される。
 
 日常はセックスであり、セックスは日常なのだ。
 暗い部屋で裸になってまぐわうだけがセックスではないのだ。
 
 セックスはしたいけれど人間関係が面倒だと言う人間は、ベッドの上のセックスも面倒臭がる。
 相手にやってほしい、前戯が面倒だからさっさと挿入したい、相手の気持ちとかどうでもいい、やっておかないとまわりから馬鹿にされるから、挿入しておかないと男らしくないから、みたいな。
 
 セックスしたいんじゃなくて、セックスしてほしいの間違いじゃないのか?
 つまり、相手になんでも与えてほしいということ。
 
 求めて欲しい、場を整えて欲しい、自分はなにもしたくない、ただ快楽を与えられたい、自分がいいと思ったらしてあげるけどそうじゃないならしないという優位な立場でいたい、セックスしたいなら相手にお膳立て欲しい、セックス幻想。獣のセックス。
 
 セックスへの憧憬。存在を認められたい、求められたい、肯定してあげたいを、相手にしてあげることで気持ちよくなりたい(相手を認めてあげる、相手の求めに応じてあげる、相手を肯定してあげる、相手の願いを叶えることで自分の快感を叶えて欲しい・・・)
 
 ただ気持ちよくなりたいだけ。
 相手とどうこうなりたいわけじゃない。
 
 ごまかしたい気持ちがあるから。
 怖い気持ちがあるから。
 
 先が見えないのがツライから。
 誤魔化すための麻薬が欲しい。
 睡眠薬が欲しい。
 
 肉食系⇒与えてやる
 草食系⇒与えてあげてもいいよ
 悟り系⇒ただ待つ、いずれ欲求が失くなるのを待つ、待ってももらえないなら
 生きた骨⇒生きながら死ぬ屍、悟りではなく、地縛霊。色情霊。欲求が失くなったと思いこむために心を殺す
 
するとだいたいのものになにも感じなくなる。感情が死ぬとアストラル体が死ぬってことだから、ずっと過去に囚われたり、肉体を生かすためだけに生きる、みたいな。浮遊霊みたいなものだな、生きた浮遊霊か地縛霊。
 
 どれもこれも「与えてやる」と言いながら、自分の欲しい物を手に入れるために奪うだけ。
 心がない。ただ肉体をぶつけ合いたい。ただ行為をするだけ。
 自分の欲しい物を相手から奪うために、エサをちらつかせて奪う。
 
 なにも与えない。与えるということを知らない。
 与えられたいだけだから。奪いたいだけだから。
 悪意には悪意が返る。奪おうとすれば奪われる。
 
 奪う快楽には奪われる不快がともなう。
 奪う喜びには奪われる不満足がある。
 最初から与えるつもりなどないのだ。
 
 相手からお膳立てされるのを待っている。
 察してくれる相手が現れるのを待っている。
 過去の被害をいつまでも引きずったまま、犠牲者ぶって、被害者の権威を振り回し、かわいそうな自分を救ってくれる、与えてくれる、完璧な存在を待ち焦がれている。
 
女は女で自分の思ったとおりにしてほしいから察して欲しがり、男は男で自分の思い通りにしたいから察して欲しいと願う。
でも自分の気持ちは伝えないし、わかり合おうとする歩み寄りもしないし、目の前の存在なんて尊重もしない。
 
自分にとっての”救世主”でなければいけない。
受け身でマグロな自分、かわいそうな自分をありのまま肯定し、認め、すべてを受け入れてくれる完璧な存在を、寝転がったまま口を開て待ち続ける。誰かのせいにしながら、なにかのせいにしながら、まな板の上で寝転がる間抜けなマグロだと自分のことは気づきもしないで。
 
 これだけやったんだからこれだけ返して欲しい、与えて欲しいというのは、最初っから与えてもらうことを前提に考えてやっている。下心があって、自分の欲求を満たすために、相手にエサを与えて支配しようとしている。
 
エサを食べたんだから言うとおりにしろと嫌だと言うことを要求する、脅す、察しろと無言で睨む、無視する。自分だけが奪われたと感じることがひどく許せないから、奪い返したくなる。
 
不快にさせたくなる。
自分から奪う敵、与えてくれないヤツだと認識すると、悪役認定して自分のほうが正しいのだと恐怖で屈服させたがる。低次元は、恐れ、脅し、暴力、他責、憎悪、嫉妬などでできている。
 
 人は仕事だからと割り切ることはできない。
 心に境界線もないし割り切る機能もないから、必ず影響を与える。
 そうでなければ、戦争だから、仕事だから、任務だからと割り切れるはずの兵士たちにPTSDなんて起きない。
 
 私生活と仕事を切り分けろ?そんなことができる存在なんていない!!
 心に区切り線を引きたいんだろうけど、無理だね!!
 兵士に無理なのに一般人なんて余計できないね!
 
 しかも人間の元の”宇宙”に境界線を作るっていう概念がないから人間にできるわけない。
 人のためにそこまでするのか?そう、そこまでやるんだ!
 心は自然と開いたり閉じたりするもので、開たり閉めたりするものじゃない。
 
 開たほうがいいとか閉めてもいいとか、そういうコントロール自由なものでもない。
 日常のすべてが、セックス。食事をする時の一口目が美味しいように、会話もそれに当たる。
 一口目から美味しい!がセックスがうまいという証。
 
 お互いに美味しい!のがセックスの醍醐味。
 食べる人が嫌いだからまずく感じるとか、作ってもらった鍋がまずいとか、そうやって他人のせいにして文句言ったり、手伝いもしないでふてくされたり、無視したり、すねたり、怒ったりは、最っ悪最低のセックス!!
 
 食事でも人間関係、心のありよう、セックスのうまい下手がわかる。
 いくら所作がきれい(テクニックが上手)でも、人間性最悪なら〆も最悪。
 ここでダメならずっとダメ。
 
 ここも心から喜びがあふれているなら、〆のセックスも盛り上がる。
 ふだんの生活ぶりや人間関係の接し方や精神面がダイレクトにすべて出るのが肉体のセックスの場。
 それが〆。鍋で言うなら最後の最後。
 その最後のさらにあとにアイスクリームが付いてきたら文句なし。
 そこまで、自分がしてもらって嬉しかった喜びを与えることで埋め尽くされている。
 
 日常の小さなひとつひとつをないがしろにして、適当に済ませて、セックスの〆のために合わせていただけ、嫌だけど面倒だけどやっていたら〆を台無しにする。
 
 
 
セックスは、出会ったその瞬間、半径5キロメートルに相手が視界に入った瞬間から始まっている。
会って、目があって、視線を交わして、会話で声を交わして、すれちがって、手を振って、ふとした瞬間に相手のなにげない仕草や所作を見て、食事を作って、食事をして、手をつないで、キスをして、甘えて、頼って、気持ちを伝えて、自然に心が開いて、喜んでほしくなって。
その〆は鍋のおじやのセックスで、デザートにアイスの実
 
すべて、すべて、セックスの内。
セックスは、出会った瞬間はじまって、その一瞬一瞬、離れていても、続いている。
おわりがくるそのときまで続いている。
なぜ与えるか?といえば自分が嬉しくなるから。
 
与えることが自分の喜びになるから。
与えてもらったことで自分の喜びとなったから、自分がしてもらって嬉しかったことをし返すのだ。
もっと言えばしたいからする。動きたいからする。ただ存在する。
 
でも私達は存在するだけじゃなくて、存在を高め合えるもの同士だから。
高め合えば合うほど、愛になるから。
愛は、ひとつ。無元。空。ひとつになれるから。