自分と心を科学する@こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

光と愛だと思っていた人たちにメールした思い出を思い出す

あーす・じぷしーにメールを送り、人格否定されたメールが届いたのをふと思い出す。
当時は「人格否定するような人間が仲間にいるなんて最低だ!!
なにが差別偏見のない世界を作ろう、だ!笑わせないで!!」
などと心は怒号でいっぱいだった。

サードアイが急に開花し、状況が一変した。
自分が心の底で望んでいたからこそ起きた出来事だ。
だけど、相談する者もなく、状況も飲み込めず、ひどく混乱していた。
この頃は自信もまったくなく、自己嫌悪も強くかったのと、スピリチュアルや霊能力に関しての無知からくる恐怖心できゃーきゃー叫んでいた。
 
上記は、2020年5月の中旬の話だ。
2020年2月21日~22日かけて行われた、あーす・じぷしー主催「シヴァ・ラートリー」に参加し、自身の魂のルーツを知った。
手当たりしだいに相談できる人を探した。
しかし、私の波動が、自己嫌悪、自己否定、自信がない、自分をいつも責めていて、自分の存在ごと抹消したいほど憎たらしい……などという惨憺たる自己愛のなさから、力があって信頼できる人とは巡り会えない日々が続いた。

複数の方々に助言を求めたが、かんばしい成果は得られなかった。
詐欺に近いような安価なヒーリングと相談をした相手には一万円以上取られそうになったので、メールの文章からヒーリングの技術を盗んだ。

さらに、その技能不足、自己愛不足の霊能者は、お金を催促するような、いつ振り込みますか?といった趣旨のことを言われたので、過去にも同じような体験があったため、迷った末、依頼を切ると決断した。

私が安価で解決したいと思っていたために、ひどい目に遭った。
自分に価値など認められようもなかったころだった。
まだ小夜ばあがいた頃で、金銭的な悩み、将来不安、過去世の問題も山積みだったときでは、そうそう信頼できる人を見つけられようもなかった。

結果、手詰まりになり、シヴァ・ラトリ開催運営事務所を思い出して相談した。
シヴァ・ラトリ開催事務所から送られてきたメールに、イベントに参加したことでなにかあれば気軽に相談しても良い、といった趣旨のことが書かれていたため。
そこで、どうしたらいいですか?とこれまでの経緯を説明したメールを送った。

しかし、ひどい人格否定をしてきたのは、あーす・じぷしーではなかった。
あーす・じぷしーが関わったシヴァのイベントを管理していた事務所の人間だった。
詳細に経緯を説明した内容のメールにたいして、稚拙な日本語の使いかたをした、人格否定の誹謗中傷を受けた。
 
この瞬間はひどく傷ついたように記憶している。
あーす・じぷしーという存在を美化し、信望していた観念がさらさらと砂のように流れていったことから、あーす・じぷしーへの心酔のような気持ちが解けて消えたときでもあった。

また、あーす・じぷしーは光に偏っていると感じた。
純粋な闇を否定する存在は、邪悪なものが憑きやすい。
その傾向に、卑近な例で気がついた。
 
純粋な闇も邪悪な闇も、否定されれば怒り、腹も立つし、傷つく。
とくに邪悪な闇は低次元に分類されるので、同調すると暴力的になる。
小夜ばあについての記事を見るとわかるが、小夜ばあが生きた千年前以上でも、まがいものの神を名乗る低級霊が村集落を洗脳するくらいわけなかったことがわかる。
純粋な闇はそのようなことはしない愛そのものだが、低次元の闇は暴力的で支配的である。
 
私達は光とも闇とも親和性が高いので、片一方を否定するのは自然に反する。
純粋な闇は仕返しなどしようもないが、邪悪な闇…低次元の存在は恐れや不安や心配や暴力的な感情に吸い付く性質があるので、恐れを抱いたり、暴力的な感情に支配されればされるほど、心を乗っ取られて、いつのまにかコントロールされている、ということも珍しくない。
 
なので、スピリチュアルな能力がある者ほど、なによりも精神的な学びや成熟が最優先。人格面、精神面、それらを成熟させ、自立させ、依存せず、恐れを手放して、身も心も愛であることが、自分自身を守るためにも重要なことだ。
 
邪悪な闇は、恐れがあるところにやってくる。
でなければ、引き寄せ合わないからだ。
例えば、私が光に偏って光の信仰者だと、光を否定する存在が寄ってくる。
なにかを否定するという波動で吸着し合うのだ。
 
運営事務所から届いたメールから感じた穢れた闇は、
「光の集団は我々を否定する排他的な思想の集まりゆえ、我々の存在を知らしめるのだ」などと、否定するところに同調して引き寄せられたのか?なんてね。
 
顧みれば、メール送信者は、自分自身を特別な存在たらしめたくて、そのようなスピリチュアルな集団に属すればなにかに目覚めると思ったら、そんな奇跡は起きなかった。
そんな折に、イベントに参加した私からメール送信者の望むことが起きた。
 
そのことに嫉妬して、その力が使えなくなるように、羨ましいから奪い取ってやろうとしたのではないか?
自分が欲しい物をあっさりと手に入れたのに、ネガティブな私にたいして、人格否定や誹謗中傷、宗教の押しつけ。
 
私が自分自身という軸がないことが他人という鏡に示されていたし、嫉妬を受けるほど自分が幸福に見えることも認められていなかった。
他人の嫉妬心で自分の幸福を奪われたり、盗まれるようなことはないが、奪い盗もうとする「自分カワイソウ」「自分不幸」と思い込み、他人と幸福を比較し、自身の人生に無責任で、受け身で、人から幸福を盗もうとする窃盗行為があることも知らなかった。
 
この件は、幸福の窃盗、エネルギーバンパイアについて理解を深める材料に多少なった。
私自身が自分軸、自己愛、自信、ありとあらゆる自分について無知だったことも知った。
自分がない人ほど、特別な力なるものに憧れるのかもしれない。
 
 
 
本人たちが気づいていないだけで、邪悪な闇の行動にも共通点がある。
卑近な例では、死神が極端に死を恐れる人を連れて行ったこと。
もちろん、死神に気づかせようとする善き霊の働きもあったらしい。
 
でも、その人は死を怖がっていたから、恐れを誰にも話さなかった。
話してしまったら死んでしまうと信じ込んでいたから。
 
すっかり恐怖に飲まれてしまったんだ。
死神のせいじゃない。
恐れに立ち向かえなかった自分の心の弱さだったんだ。
 
そうして、死神は、死を極端に恐れる人を崖っぷちに連れて行って引き返せなくして、死の恐怖から魂を救う。
 
そんな邪悪な闇達が、光光光!闇排除!を勧める集団があれば、そこに闇が入ってくることにとても恐怖していることを感知し、その恐怖に穢れが吸着する。
闇に傾倒しがちになれば、光の介入もあるように。
純粋な闇を恐れることで邪悪な闇に魅入られることもままある。
 
純粋な闇だろうと邪悪な闇だろうと、どちらにも気付きがある。
純粋な闇は愛から、邪悪な闇は暴力から気付かせようとする。
 
邪悪な闇のやり方は、いつまでも親に認められたい、愛されたいとする、幼児欲求や執着をもっている状態と似ている。
執着も恐怖も、それらは邪悪な闇のエサになりやすい。
そのため、外部に気付きを用意して、心の穢れを手放すように心が促すのである。
 
 
 
 
人格否定は低俗な脅しである。
低次元はまさに恐怖、脅迫、支配、暴力など、重たくて息苦しいもので構成されている。
高位な悪魔ならそんな稚拙な手段を使わず、そもそも人間の欲求など聞きもしないかもしれない。
人をバカにする人を低次元だ、低レベルだと表現するように、それらは低次元の行為である。次元に生者と死者の区別はない。
 
憑依は、だれにでもなるわけじゃない。波長が似た人じゃないと霊も憑けない。
私が死ぬことを恐れないのなら死神はくっつけないように、低級霊や小悪魔も同じ心の不満足をもっていないと憑けない。
類は友を呼ぶ。それは人間だけじゃない。

メール送信者は、自分を認めてくれない外側の存在に怒りをたたえていた。
劣等感の塊だった。自分を他者と比較して、自分を劣った存在だと恐れていた。
他人を人格否定する時点で、その人自身が自身を底から否定していたことは明白だ。
そのような存在と引き合う私も、あーす・じぷしーも、そういう要素がなければ引き合わない存在だ。 
 
邪悪な闇はまだしも、純粋な闇を否定する人は不自然だ。
純粋な闇があるから私たちは光であることを感じさせてもらえる。
純粋な闇と光の中で、自分たちは純粋な存在であることを自覚できる。
世界も私達も、すべては陰陽で形作られている。
 
それが、「光だ、光だ」と不必要なほどに純粋な闇までも排除しようとするのは自然の摂理に反する。
死神だって死を恐れる者にしか取り憑けない。
人間に死神が憑依するのは、死への不安や恐れを自分で肥大化させたからだ。
死神を育てたのは、まさに自分自身の頑ななまで恐怖だ。

死を恐れる苦しみから救うために恐怖がやってくる。
低次元の存在は恐れる人間に寄生するカビのように喜ぶだろうが、人間は人間でカビのような恐怖を根こそぎ除去しようと覚悟し行動することで、学びになる。

低次元の塊のような死神と出会うまでに恐怖を肥大化させたときは、死に向き合う好機だ。
死を恐れずに受け入れ、死への恐れだけを手放せるかどうかで、学びとなる。

死を恐れ、死を否定するから、死神がやってくる。
どのような存在でも、頭から「おまえなんて」と否定されたら意地悪をしたくもなるし、逆に死とは救いであることを思い出させてくれもする。
スピリチュアルでは、光思想が目立つ。
そのため、純粋な闇は傷ついている。
純粋な愛と光の存在であるならば、すべてをありのままに認めることが愛と知っている。
純粋な闇は光同様に愛だ。
どれほど傷ついても、害を与えるようなことはない。
されど、無視をされれば悲しみを抱くだろう。
私たちとなんら変わらない心をもっている。

闇に傾くのも光に傾くのも違う。
愛は中立で均衡が保たれ、まっすぐだ。
光だけが立派で素晴らしいという思い込みは、邪悪な闇に好かれる状態を作ることにしかならないのではないか?と思う。

邪悪な闇に憑かれた人はなにを学び気付く機会があるのか?
邪悪な闇は恐怖や不安や心配や怒り、低次元のものをとても好む。
同じように、恐怖や不安にいつまでもしがみつづけ、握りしめていれば、邪悪な闇から同類だとみなされ、強い波動を出せば出すほどそのような仲間が寄ってくる。
邪悪な闇の存在を否定するところにこそ、闇が潜んでいる。
 
低次元の存在のなかには、死を恐れるからこそ、同じく死を恐れる人間にくっついたり、自分自身を否定するからこそ、同じく自分を否定し嫌悪する人間にくっつく性質がある。
 
いずれにせよ、盲目的に「光」を信じるのもよくない。
強い光の裏には必ず強い闇もいる。
純粋な存在があれば、邪悪な存在もある。
高次元もあれば、低次元もある。
それらに善悪や正悪はないが、偏りは愛ではない。
まっすぐに中立でありのままを認めることが純粋な愛である。