高次本能研究日記@こころ科学

姓名数数秘7の内観と心理分析、人が自分らしく生きるための本能開花について考える記録日記

【内観】人間採点が及ぼす恋愛問題&ありのまま愛されるには他人がありのまま愛されることを許す

自分が自分を殺しに来る
自分が不幸なとき幸せな人を見ると殺したくなる
自分が幸せになったら不幸せだと思っているいつかの自分が殺しに来る

自分が嫌だと感じた人を呪うから
だれかが自分を呪っているのではと疑う
自分が嫌な目に遭ったら嫌な目に遭わせた人を呪い殺したくなるから
だれかが私に嫌な目に遭わされたと思ったら私のことを呪い殺すのではないかと思う

顔面偏差値が幸不幸を決めるのか?
イケメンは顔面偏差値の高い女しか選ばないのか?
私は顔面偏差値が低いから顔面がいい女より幸せな恋愛も結婚もイケメンの彼氏もできないと思っているのか?
イケメンは私を選ばない?どうして?
自分のように顔がいい女を選ぶだろうから
(自分と同じくらいのレベルかそれ以上の顔がいい男を選びたい)
私は美女と言える顔ではないから選ばれないだろう
(自分よりレベルが低い顔の男なんて選びたくないし声もかけてほしくない)
私も美女だったらイケメンから選んでもらたのに
(私がイケメンだったら美女しか選ばないだろうし、私ならイケメンしか選ばない)
美女だったらちやほやされてイケメンとも幸せになれたのに
(私の顔がもっと美形だったらよかったのに、そうしたらもっと顔面偏差値の高い男と付き合えたのに、こんな目に遭わなかったのに)

顔がよければちやほやされたのに
イケメンから声をかけてもらいまくりだったのに
自分にももっと自信をもてて人生が楽しくなったはずなのに
顔がいいだけでほかの女がイケメンと結婚するのが許せない!
私だってイケメンと結婚したいのになんで顔がいいだけであんたらばっかりイケメンと結婚するの!私のイケメンを奪うな!盗むな!横取りするな!
顔がいいってだけで人生の偏差値に差が出るなんて許せない
美女の顔がほしい
美女の顔をめちゃくちゃにしてしまいたい
美女の顔がめちゃくちゃになってもイケメンから愛されるのか試してやりたい

イケメンから愛されたら自分も美女気分を味わえそう
なんかいい女になったような気分になれる
自信ももてそう、私は顔がいいだけの女よりいい女だと

私は美女じゃないから人生がうまくいかなくて
楽しくなくて、人からもちやほやされなくて、注目されなくて
イケメンと恋愛することもできなくて、不幸なのか?

顔が良くてもこれじゃあ人生を楽しめそうにない
ほんとうに”美女だったら”人生や自分を、恋愛や結婚、仕事や人間関係を楽しめたのだろうか?
いま楽しめていないのは顔のせいなのだろうか?

凹:自分の顔が悪いから美人よりも人生が楽しめないんだ
凸:自分の顔がいいから不細工よりも人生が楽しいんだ
(自分の家族や恋人などの顔がいいから自分もいい女/男だ)

凸の場合、自分は顔がいいと思っているので、自分と同じくらい顔がいい人を選びたがり、不細工には目がいかない
自分と不釣り合いの、「下の不細工」は自分にはふさわしくないと見下している

凹の場合、自分はこの程度の顔だから、程度の低い顔の人としか釣り合わないんだと思いこんでいる
自分から美人の相手を諦め(きっと相手にされないと最初から自分から先に諦めている)、美人は美人を選ぶんだとひがむ
自分は「上の美人」とは釣り合わないんだと思って自分を見下している

凸があれば凹、凹があれば凸の気持ちが表裏一体でついてくる
どちらか一方だけの執着ということはまずないだろう

私はどっちの傾向もある
自分の価値観で顔面偏差値の上下、優劣を決めて、ジャッジしてから相手への態度を決めていた
自分より上だと思ったら凹の態度、下だと思ったら凸の態度

イケメンに対して、
・ブスって見下しているんでしょ!
・ブスは恋愛対象外だって思っているんでしょ!
・バカにして!
・イケメンだからって調子にのるな!
・顔だけのくせに!
怒りや憎しみを向けていた
こういう人だ、と決めつけていた

顔面偏差値をステイタスにしていた
・イケメンとセックスしたほうが加点プラス
・ブサイクとセックスしたら激しく減点マイナス
・イケメンと関わったら自分のステイタスに箔がつく
・ブサイクとか関わったら自分のステイタスに傷がつく
ブランド品ではないが、ステイタスになるか、傷がついて減点
自分にとってマイナスで黒歴史でぜったいにバレたくないものか
自慢になる歴史でイケメンとやったんだーって言いたくなるか

人間の顔面偏差値や能力面で自分と関わったことがプラスかマイナスか、優劣をつけて採点していた
マイナスなものはとことんマイナスなので、自分のステイタスが下がることがすごく嫌だった
自分にとってステイタスがマイナスになった存在を抹消したいくらいには嫌だった

自分の人生を要素化して幸不幸を採点していたのか?
・仕事をしていないからマイナス、仕事をしている人と比べてステイタスが低い
・顔面偏差値が低い人と関わったからマイナス、イケメンと関わってステイタスをプラスにしたい
・お金がたくさんあるほどプラス、お金がないからステイタス的にマイナス
・キャリアウーマンになれなかったのでマイナス、仕事をしている女性の方がステイタス的にプラス
知名度があって影響力があればステイタスはプラス、私にはどちらもないのでマイナス
といったふうに、人生における要素を加点か減点で採点して、幸不幸を決めていたか

これじゃあステイタスで人生や相手を選ぶ人間が引き寄せれてしまう
学校のテストや通信簿みたいだな
100点ならステイタスが高い、0点に近づくほどステイタスが低いといったふうに

採点方式・・・学校で刷り込まれる洗脳だ
戦後教育もいい加減にしてほしい!
脳がやわらかいうちにこういう弊害ばかり産む人間採点方法をしているからいつまでも教育レベルが先進国の中で遅れを取る原因じゃないのか?
いつまで戦争を引きずれば気が済むんだ教育は!

まあいい
気付いて取っ払ってしまえば問題ない
気づかずにいれば採点方式人間と引き合うだけだが
認知してさらに手放せば原点にもどることは容易い

自分のことも能力、実績、立場、職業、外見や内面、行動から言動に至るまで、個別の要素を作って、ステイタスとしてどれほどプラスかマイナスかを計っていた
それで、どうしてステイタスが必要かっていえば、社会(人からの評価、人の目色顔色、批判が気になる、世間体など)だ

他人の目を気にして、他人からプラス評価を受けて好かれるために、好かれる要素、加点となるものを見繕い、社会的に高評価を受けようとする
一部の人が物質的成功(キャリア、権力、起業、高年収、美男美女、ブランド力、勝敗、勝ち組負け組、生活水準、教育レベル、学歴、職歴、技能、才能)にこだわるのは、採点方式の教育で刷り込まれた競争採点脳が原因だろう

競争・・・いつまで私たちは人間同士争いをして、優劣を決めて、高得点か低得点かなどにこだわり、立場やら年齢やら性別やらに縛られて、負けることや恥をかくことを減点だ、マイナスだ、ステイタスに傷がついたと、やいのやいのと騒がなければいけないのか
スポーツのように得点と勝敗を決めなければいけないわけでもないのに、人生を競技のように捉えて、相手を蹴落として勝ち上がろうとするのは、戦後の暴力的教育の名残なんじゃないか?
数字ってのはわかりやすいから、わかりやすいものに飛びついて不安を払拭したいだけなのかもしれない

自分のこともそうやって頭のてっぺんから足の爪の先、はては霊だ命だ、天命だ使命だ、存在価値だといった目に見えない領域のものにまで採点方式を持ち込んでいた
あの人はアレができるが自分にはできないのでマイナスだと、いちいち人を比べては自己嫌悪していた
完璧主義も災いして、すべてできる人間にならなくては有能とは言えない、存在価値すらない、社会貢献しなければ無意味なのだ!くらいに思っていた
社会貢献?バカバカしい
自分のステイタイスを高めたいがために他人を道具やアイテムのように使用することの、なにが社会貢献なのか
他人を数字や能力としてしか見ていないのに、利用することしか考えていないのに、社会貢献?
そのまえにその利害思考採点方式脳をはずせ!なんとかしろ!って話だったと自分で思った

採点方式で幸不幸を決めていた
偏差値が高ければいいってやつみたいなもんで
あの人は美人=偏差値高いから、みんなからちやほやされて幸せね、みたいな
自分はそれと比べてマイナス20点くらいだから、幸せもマイナス20点ね、みたいな
どこぞの学歴至上社会みたいだな
学歴がないと這い上がれない社会性が日本にもあるってことだ
それも学歴だけじゃなくてすべての要素を採点している人間が一定数いるのだから
日本人の教育レベルが落ちたり、エンゲル係数が落ちるのもさもありなんだな
そうなって当然の自然な流れだが、そうではない人達がいることもまた事実
採点方式にとらわれずに心のままに生きている人たちもいる
なら、そっち側に行こう
私も採点方式を捨てて、ありのままの友好的な世界に行く

採点方式といえば
男性のことも採点して見ていた
でも男性は道具じゃなかった
顔がいいからって私を見下しているんでしょ!恋愛対象にならないと思っているんでしょ!と被害妄想をしていたのは私自身の問題だった
顔がいいからプラス加算
でも性格が悪かったらマイナス減点
そんなふうに男性を採点していた
でも男性もひとりの人間、ひとりの存在で

だけど、男性は私や女性やだれかを幸せにしてくれるために生きているわけじゃないし
同姓と恋愛や結婚してもいいし、両性ともそういう関係を結ばなくてもいい
どうするかは性別に関係なく、その人の自由だ
自由であるなら、他人が他人のそれらに口を挟んだり、理解してくれと要求することもまたできない
無性愛者でもなんでもそんなのは多様性にすぎない
だが、それにたいして「そういう態度をとられるのが迷惑だからやめて」とか「自分はそういう気ないから理解してよ」とか要求がうぜえなと思う

理解するかどうか、どういう態度をとるかどうかはそいつの勝手
私がどういう態度、どういう理解を示すのも私の勝手なように他人の勝手なので、そういう要求がただただうざくて嫌いだと言う
するなやれと他人に指図することはできないが、嫌いだと言うのは自由である
私が指図命令一切受け付けないので、他人にもそれをしない代わりに、私も一切指示命令を受け付けない
私の上に立って私の言動や行動を勝手にコントロールしようとするまでは勝手だが、私が受け入れないこともまた自由
自由を認めても受け入れることを許し認めたわけではない
そいつが理解できずにこちらのムカツクことをしてもそれは本人の自由
その代わり、こっちが相手を理解せずにムカツクことをしても私の自由
自分にそれを許すなら相手にも許すことになる
私に指図指示するのなら私がそいつに指図指示するのも拒否るのも自由ということだ

恋愛や結婚の対象として限定するものでもないし
恥ずかしい、ダサいところがあったらうわー減点!みたいな気持ちもあったけれど、そんなんで減点したり、そもそも採点するほうが人間としてナシだった
そういうふうに男性を採点して要素要素として、まるで道具みたいに見ているとはいままで無自覚で気づかなかった

ありのまま愛されたいなら、相手のありのまま愛されることを認める
相手を変えようとしない、自分を変えようとしない
変えないままに愛されることを許すとき自分もありのままに愛されることが自分から許される
そうすれば自分がありのまま愛されることを自分が許し認めることができる

【内観】自分の才能、人の才能、使い方は本人次第

無能は悪いことなのか
私は無能という言葉に反応した
自分が無能であることが罪だと感じたためだ
無能を非難し、無能は叩かれるべき
それは私とて同じこと

しかし無能でおわることはそんなに悪いことなのか?
非難され、無能なまま才能を開花させずに死ぬことは悪か?
惜しまれるべきことか?
なにかを成し、なにかに貢献しなければいけない決まりでもあるのか?

私は多分、無能だと同じ意味、同じ非難する感情で叩かれたり、みじめな思いを感じたことがあるのだろう
だから無能であることは悪いこと、情けないことだと自分も他人も厳しく有能であるべき、社会貢献に勤しみ、意味のあるべきことを成すべきだと思ってきた

だが有能でなければならない理由も決まりもないし
社会や人によく尽くし善を積み人として勤しむべき義務もない
そんな決まり事は人の頭の中にしか存在し得ないのだ

私は自分が有能で、社会で使える人となり、大事を成し遂げながらも些末も忘れない緻密で完璧な仕事を達成するだけの人になりたかったし、そうなるべきで、そうではない自分は無能で使えない、存在するだけでただ酸素を消費し、糞尿を排し、朝がきて夜が訪れるのをただ待つだけの肉塊だと思っていた
そんなものは本人にとっても苦痛なのではないかと思っていた

だが、人と速さを競い合うことにも意味がなかったし
早くやったからといって丁寧さには欠けることもある
有能だからといって人格者とは限らないし
世に人に必要とされるかはまた別の話だし
有能だからこそ毒を産むこともままありえる
無能な人というのはなにもしないぶんだけ無害なこともある
有能な人に比べて有益だが有害でもあるものも産まない
無能も有能も紙一重というか
社会に貢献することを有能だと表するのはいかがなものなのか
生物がそこに存在するだけである種の奇跡なのだから
それにくわえて社会貢献だ、有能であれなどと、戦後でもあるまいし
一体いつまで私たちは見えない作られたシャドウと戦わなければならないのか
いつになったらありのままで認められる世界へと完全に移行するのであろうか

それなら私はどうする?
有能であれ、という詭弁を捨てるのか?
ほんとうにありのままただそこに存在するだけでいいと認められるのか?
ほんとうに有能なものは、自分だけではなく人の才能を引き出し開花させる力にも優れているだろう
であれば、そこに存在するだけでいいと認めたうえで、さらに本人にとって有意義な人生とする手助けとなることもできるのではないか?
本人にその意思がなければ蕾のままでもよかろうが、本人が気づかぬ才能を引き出すこともまた、有能とされるものの働きなのではないか?

だが、私が有能である必要はない
だれかが私の代わりに私のできないことを成す力があるのならそれを引き出してやってもらえばいいだけだ
私がすべてを成さなくてもいいし、大事が成されるのをただ見ているだけでもいいのではないか

”自分が”有能である必要はない
人の有能を引き出してその人たちがやってくれるのなら
自分がすべてを引き受けてあれもこれもと一手に負わなくていいのだから
それが後継者を育てる影響を産むことにもなるし
自分がすべてを負う必要ないのだ

”自分が”なにかをしなければ有能ではない
それは思い込みと視野の狭さの為せる技か

”私が”社会貢献とか自分でなにかをする有能だとか
それはどうでもいいことかもしれない
私が生み出したもの、引き出したものが貢献すれば
それはそれでいいわけだし

早く優れた作品を作ったほうが有能!だと思っていたけれど
時間をかけることは悪いことではないし、なにかと競って早く早くと作ったものよりも、時間をかけて熟成させたものや丁寧に作られたもののほうが私の心には合うらしい

草むしりで丁寧にむしる私に自分のほうがどんどんむしっていると家族に対抗?されていたが
私は丁寧にむしっていったほうが気持ちいいと感じたし
そういえば私も早くやったほうが勝ち!儲かる!みたいなスピード狂いなところがあったが
そうやってだれかと競って早くやるってこういうことなのだな、と家族を見ていて思った
早くやったからといって、褒められるものってわけでもないし
すごいねって思えるものでもなく・・・
そうなんだ、でおしまいなんだなと
中身が伴っていないのに、粗が残るやり方で早くやってもな、と家族を見て自分の振りを見直した
私が早く早くと作品を作っていたら庭の草むしりのようにむしり残しが残るのだなと、家族が抜いたあとの土から細かい雑草を抜きながら思うのであった
雑草を丁寧に抜いても数週間でちまっとした芽が出てくる
どれだけ丁寧に抜いて根絶やしにしても彼らの抜かれても抜かれても生えてくるど根性ぶりは見習いたいと思った

相手が無能でも、自分の才能を使わずに腐らていても
その人の自由だと許すのなら私が無能でも、才能を腐らせたとしても、私の自由だ
腐らせる気はないが使い込む気満々だが
私の才能をどう使おうが私の自由、その人の自由
他人が他人の才能にあれこれと指図したり非難する権利はない
提案はできるし気付いて教えたり引き出すことはできるが使おうが使うまいが、どう使おうが、その人の自由ってことだな

自分の潜在能力を使いこなせていない、認知すらしてない人がつい人の才能にあれこれ口を出したくなるのかもな
自分の才能を使っていたら他人の才能に口を挟んじているヒマはなくなるだろう

 

子供の才能を引き出すにしても、干渉や暴力と指導やサポートを取り間違えたエセ教育親が多い

自分の能力も使いこなせていないからその力を使う苦労も努力がないから、どうやったら人が自分の能力に気づき、引き出し、活かせるかの知識もない

出来損ないの自分の代わりに子供をどうにかしようとする愚者もいるが

出来損ないにしたのは自分だ

出来損ないにするのも能力をフル活用できるかも自分次第で、その知識や技術がないのに、子供の才能なんて引き出せない

子供がたまたま才能を開花させたとしたらそれは親のおかげじゃない

 

自分が自分の潜在能力を使いこなせるようになって初めて人に教えられる

力がうまく使えない辛さとか、人と比べて落ち込んだときの意識の持ち替え方とか、こういうときはどうしたらいいか?は自分自身で経験していなければ、実感を込めて言うことはできない

そも、自分に許していないことを子供に許せるはずもないので結局は子供の才能に蓋をしてしまうこともあり得る

 

自分を無能にするのも有能にするのも自分次第

自分を知って自分の潜在能力をフル活用する方法を考える

それは他人じゃなくて、最終的にはいつでも自分の力で決断することになる

 

※なんかぼーっとする

頭の中が静寂な水面のよう

そんなわけで、書きたいことなのかどうなのかもわからずに書いている

気になったらあとから修正するかな

 

【内観】性行為において白光体験があったら一線を超えたと言える

男性や女性、異性や女性は、自分と友だちになったり、恋愛したり、結婚したりといった物質的なパートナーではない

そうしなければいけない決まりはないし、友人関係や恋愛や結婚という形にこだわって、型に相手をはめこまなければいけない決まりはない

どうも、恋愛がしたいとか、結婚がしたいといった人たちは、形ばかりを求めている気がしてならなかった
違和感が拭えなかった

どうして恋人同士になる必要があるのか?どうして結婚、夫婦、という形を取りたがるのか?
法律の制度では、結婚という形を取ったほうが子供が生まれた場合、いろいろと有利で便利な面がある

しかし、それを根拠とすると、子供がいない夫婦は結婚という形は必要ないわけで
だったら恋人関係なんて契約書も法律上の制度もないんだから、形はいらねーじゃんと思った

恋がしたいとか結婚したいとか、相手がそうしてくれるものだという前提があるのがなんか違和感だった
恋愛をしましょうって言ってするわけではなく、たとえば精神性に惹かれただとか、行動的なところが魅力的だとか、いっしょにいて心地が良いだとかがあって、自然といっしょにいるようになり、結ばれるといったものが自然だろう

なのに、恋愛がしたい→好きな人が見つかったら恋人になりたい→仲良くしていたら結婚しましょう=はあ?なんで恋人に~とか結婚~とか、相手を形にそって動かそうとするんだ?なんで相手をそういうもののために用意しようとするんだ?その人はあんたと恋愛をして、結婚して、子供を産むために生きているのか?そうじゃないだろう

自分のことしか見えていないのがすこぶる気持ちが悪い
恋人関係や夫婦関係といった形に「わざわざ」当てはめようとする、そこに当てはまる相手を探して用意しようとするのが気持ち悪い

恋人や夫婦やそういった制度はただの形なので善悪はないし、ただの形だ
しかし、やたらと形にこだわって、恋愛がどうの夫婦がどうのセックスだの子供だの、相手が自分のために存在しているかのような扱い方・・・

なんで物事を主観でしか捉えず、この世界にいる人たちはまるで自分のために存在しているかのように扱うんだ?
自分が主人公なら、まわりはみんな登場人物だから、恋人としてだれを選ぶかも、だれと結婚するのかも、ぜんぶ自分のご都合通りにいくように他人が存在しているとでも思っているのか?
ゲームのやりすぎだろう

登場人物たちは主人公と恋愛して結婚してセックスして子供を産むために存在するわけじゃない
それぞれが人格と意思をもって存在して、それぞれに人生がある
それなのに、やたらと物質にこだわる人間は、恋愛だの結婚だの、あるいは身体的快楽ばかり求めてセックスをしたがる輩もいる

それでは精神性が置いてけぼりになって、真の一体化も昇華もなにもありえはしない
セックスなんてとくに精神性が重要で、精神的なつながりなしにセックスの回数やテクニックばかり磨いたところで、「白光体験」なる霊性の頂点であるオルガズムに達することはない

その人が到達できるもっとも高次元の領域にはセックスが一番わかりやすい方法だろう
頭だけではなく、身体だけでもなく、相手だけでも自分だけでもなく、陰と陽が中庸に発展して昇華されたとき、真のオルガズムに到達する

たかが身体を重ねて、根っこつっこんで、あんあんあえぐセックスをしたくらいで、一線を超えたなんてばかばかしいにもほどがある
一線どころか、まだスタートラインにも立っていない
一線を超えたと判定するのは「白光体験」、無我の領域に到達したときだけだ

それすらも自我の宿る肉体にもどれば、また戻るのだが、体験したことは事実なので、貴重な体験となる
一線を超える・・・無我の愛の状態そのもの
死の淵から生き返ってきたり、最高のシンクロ(集中)状態になったときなどにも、一線を超えた体験が起きるようだ

たかだかセックスしたくらいで、一線超えちゃいました~とか、セックスしちゃった~とか、は~あ~(げんなり)って感じ
くそどうでもいい、まったくお話にならない
それは動物以下の行いだ

なんのために人間は高度な知能と感情の機微がわかる機能がついていると思っているのか


動物は高度知能がないだけに純粋に性行為に及び生殖活動をして子孫をつなげていく
一方、動物以下の性行為に及ぶバカは、回数だの、外見的ステイタスだの、テクニックだの、知識だの、くそどうでもいいことでセックスして得意になって、まったくシンクロしていない状態でセックスばかり重ねても、肉塊に皮膚をかぶせてぶつけあっただけのようななんちゃってボクシングと変わりはない
なにが神聖な行為だふざけんな
心がシンクロ(あるいはエンパシー)していない同士がセックスしたって真性のオルガズム(クンダリーニ)は起きていない

よって、真の快楽も程遠い、どころか見えもしない

心がシンクロしていれば見つめ合っただけでも「白光体験」できるだろう

プラトニックラブ同士でも成立する

 

そこまでいってからセックスを語ってくれるならまだしも、かんたんに切れてしまうようなシンクロ状態とか、恋人だの夫婦だのの形に酔っているシンクロの低い関係だとか、精神よりも肉体さえ快楽を感じられればそれでいいだとか、物質に片寄った人間は雑草のごとくおんなじ話をしたがる
もう飽き飽き、聞き飽きた
脂身の多い話ばっかりしていないで赤身の多い心のタンパク質となる話が聴きたいところだ

私が実際に性行為に及んだとき、男性たちとはまったくシンクロしていなかった
それどころか、神聖な、愛に依った、お互いを思いやる真心の精神性に反していたために、ぼろっかすになった


絆のシンクロが浅ければ浅いほど、浅く肉体的な快楽さえ感じない行為に終わることを知った
私が求めていたのは、肉体の皮膚を擦れ合わせるものではなく、心で感じ合える、つながっている、心から尊敬できるなど、精神性が重要だったとわかった

 

マヤ暦や数秘術で私を分析していくと、どうあっても精神性に重きを置いたほうがいい

物質的、肉体的快楽を追求すると火傷をする

生き方の方向性が誤っているというサインがどんどん強くなり、後戻りできなくなるところまで痛手を負いかねない

自傷自虐行為にまで発展はしたが、それ以上には及ばなかった

 

精神性重視、精神世界で生きることが愛になる人にとって、物質的快楽を追求する人、精神性を軽んじる人とは合わない可能性が高い

精神も物質も、ならまだしも、とかくセックスできればいい、性器を陰部にくっつけてつっこんであひあひしたいという低俗な精神レベルの人と関わると痛手を負う

とかく心のレベルがセックスのすべてのレベルと言っても過言ではない

ここを軽視する存在といくらセックスしたところで、ゴミ箱のように性処理道具として使われるだけである

そんなやつのゴミ箱にされて喜ぶんでもないなら、あえて関わる必要性は限りなくゼロ。ていうかマイナス。「汚れる」からやめたほうがいい。

たとえ幸いにも身体に傷がつかず、後遺症がなかったとしても、精神に傷がつく。

その傷を癒やすために何年も苦しまなければならないこともある。

ゆえに、心を軽視する存在と交わっていいことなどひとつもないと気付いたことをここに記しておく。