自分と心を科学する@こころ科学

内観、自己分析、セルフワーク、スピリチュアル

話を聴いて欲しいという無償の愛を求める気持ちがあった

 

幸せかどうか、不幸せかどうか、わざわざ人に話す必要はないんだ。

けれど、自分がこんなに幸せなことがあった、とあえて話したがる人は、親に100点満点を取った答案用紙を見せて褒めてもらおう、自分にいいことがあったらみんなに見せびらかしたい(自分がいかに幸せかを自分に証明したり、共感してもらって幸福感を増幅したい、など)という、子供が取る行動と似ているなと感じた。

 

一方で、100点満点の答案用紙はただの答案用紙、ただの100点満点としてあっさりと見せるだけで終わらせる子供もいる。私はそのタイプだった。

 

100点取ったからってなんなのか?

ABC評価の通知表でAを取ったからなんなのか?

それで個人の能力を表せるわけでもないし決定されるわけでもない。

ていうか通知表ってまるで兵士の訓練成績みたいだよな。

 

教師という個人がつけた採点がそんなに重要?

 私を勝手に採点するな一教師ごときが、と思っていた。

 

だって明らかに私よりも未熟な精神の持ち主が、未来ある子供の足かせになるような行為をしてきたのだから、目障り以外のなにものでもなかった。

 

残念ながら、私の通っていた学校に私が尊敬するほどの人格者も精神の持ち主もひとりもいなかった。

 

資格さえあればその仕事ができてしまう立場なんて、その程度なのだなと思った。

カウンセラーしかり、臨床心理しかり、資格ありきの仕事はすべて。

 

人格より資格だなんて、資格ほど当てにならないものもない。

資格があるからってそれで人格の成熟が伴うわけじゃなく、別個で独立しているものだよな。

 

私が未来で経験することになる出来事よりも浅い一教師に、人ひとりの人格や能力や成績を評価する資格はないと思っていた。

私が逆に教師の採点をしたくてたまらなかった。

私が教師を評価できる立場なら、徹底的に辛口で採点してやった。

 

そんな感じで、冷静というか、いまより大人っぽい、大人に反逆する子供だったな。

私が大人ならなかなか手ごわい子供だろうな。

 

なんせ、相手の心の動きを見抜く洞察力のある相手は、嘘をつくことができないし、大人の権力なんて振りかざせば反逆されるし、信用できない相手として言うことを信じてもらえなくなる。

 

私自身もそういう相手と接するときは緊張する。

たぶん、見抜けるぶん、見抜かれたくないと思うのかもしれない。

嘘はついていないが、見抜かれたくない奥底の部分というものはあるのだ。

 

最近では心の隠し方、扉の開け締めの方法が身についたから、デリケートな心の中まで見せないようになっている。

 

気付いたらできるようになっていたな。

それのおかげで依存気質の人に心に巣食われなくて済む。

でも警戒するよりは、気を引き締めようとも思ったな。

 

だれにでもかれにでも心の奥底まで見せるというのは、私はどうかなといまの時点では思っている。

警戒よりは、自分の気を引き締めるって感じ。

警戒だと、ゆるめたときに油断が生じやすい。

 

聞かれれば答えることもあるし自分から話すこともあるけれど、自分から自分はこういう人間ですって言うと、頼らせてくれるかも、助けてもらえるかもという依存心で寄ってこられることがわかったので、なんでも話せばいいってものでもないなと実感した。

 

マヤ暦の青い夜が自分はこういう人間ですとオープンに言ったほうがいいとあったが、それによって依存されては困るのだ。エネルギーを吸われるから。

 

私みたいに念にひっつかれやすい巫女体質は、自分自身をより防衛する必要がある。

そんな体質の人間が、あれこれと自分がこういう人間ですとまわりに言うと、依存されたり、エネルギーを吸われたりと、生命力に関わる出来事に巻き込まれることになりがち。

 

そうでなくても立っているだけで、ふつうの体質の人よりもエネルギーを消費するってえのに、依存までされたらかなわないって話だ。

だから巫女体質や吸いやすい体質の人、敏感な感受性の人は、依存気質の人のそばにいてはいけないのだ。

 

自分の身は自分で守る。マヤ暦の青い夜はそういう事情がある人もいるので、よくよく人を見極めてから自分自身のことを語ったほうがいいこともあるだろう。

 

少なくとも私はもう霊媒体質だのスポンジ体質だの言う気はなくなった。

相談を受けていたこともあります~とか。

 

なぜか私のような体質、あるいは気質というのか気性というのか本質というのか。

その人がふだんは話したがらない秘密を打ち明けたくなる気配がするらしい。

 

口が軽くなる、といったら言い方が悪いだろうか。

でもぽろっと話して楽になりたいと思うらしい。

私は全く心の奥底の秘密まで話したいと思わないが。

・・・隠したい秘密もないから隠しようもないが。

 

ただ、心の奥底まで隠さずとも影響されない、流されない、相手に侵蝕されないような柔軟さと剛毅さを備えたいものだ。

お餅のようになれば、なにが刺さってもすっぽりと傷つかずに抜けるのだし。

 

・・・いや、あまり心地の良くない相手のそばに長くいたり、話し込んだりするものよしたほうがいいな。

相手は選ぶ。それが自分を守ることにつながるだろう。

 

教師の話に戻すと、教師は採点が仕事(義務、職務)だとしても、私からすれば私の存在や能力への侮辱としか感じられなかった。

通信簿も、テストも。学校というものは、くそどうでもいいものばかりだった。

 

だから、100点満点取ろうがなにしようが、私の人生には取るに足らないものだったし、親に報告したこともない。親とは別居していたので祖父母に答案用紙を渡すことになるが、私は答案用紙でスキップするように渡したことはない。

 

だけどわざわざブログでいかに自分が幸せかアピールしたり、自分がわかっていればいいことをあえて、強調した表現やブログに書くのって、話を聞いて欲しいからなのではないか?と思った。

 

私もこのブログを書いていたのは、『だれかに話を聴いて欲しい』という無償の愛を求めていたためかな、と思った。

 

人にじっくりと話しを聴いてもらったことない。

カウンセラーも精神科医もスピリチュアル系の鑑定者も、家族もまわりも。

私の話をじっくり聴いてくれなかった。いつも私を弾いてきた。

なのに私には話を聴いてもらいたがる、傾聴してもらいたがる。

私だって人に話しをしたいのに、私にばかり傾聴という愛を求めてくる。

それが嫌で嫌でたまらなく嫌だった。わがままで身勝手だと思った。

自分は私の話を聴いてくれないくせに、相手は秘密を打ち明けて気持ちを楽にしたり、私に話しを聴いてもらってすっきりしたり、勝手過ぎる。

 

私は話を聴いてもらいたかったのだ。

無償の愛でもって傾聴してほしかったのだと思った。

 

どちらかというと、依頼にたいしても対話にしても、発信するほうが好きだった。

自分がしゃべるのが好き、相手が興味を持って聞いてくれるのが好き、会話をしていて反応が楽しいと感じるのが好き。

 

「なるほど」とか「ふーん」とかだいたい聴いてない、どうでもいいと思っているのがわかる、流し聞いている反応を見ると、途端に話すことに冷める。

どうでもいいやこの人との会話は、となる。

 

そういう人に限って私に話を聞いもらいたがったり、わがままだったりして、嫌になる。

適当な反応をされるとイラッとして、話を聴け!!と強要したくなった。いつも話を聴いてやっているのは誰だ!!と思った。

 

真摯に話を聴く、というのは無償の愛なのだな。

私はそれを相手に求めていた。ずっと。

話を聴いてくれないと、絶対に許さないと思っていた。

依頼のなかには人の話を聴いていないならず者もいたから、ずっと批判し続けてやると思い続けていた相手もいた。

 

話を聴こうと思うのに、話したい!という気持ちが先行していたのは、話を聴いて欲しいという欲求、相手への要求と不満があったからだろう。

 

人が話を聴いてくれたのかどうか、アクセス数を気にするのも反応を見たかったからだろう。

多くの人からのアクセスを求めるのは、それだけ他人に話を聴いて欲しいという欲求が強いからだろう。

 

親にもっと聴いてほしかった、かまってほしかった、愛してほしかった幼児欲求を、響きの良い難しい言葉に変換して、それっぽく表現していても、その根本には親からの無償の愛、親からの愛を求めているんだろう。

本人は絶対にそれとは認めないから、いつまでも幼児欲求がくすぶり、満たされることはないのだが。

 

満たされるには認めるしかないのだ。

認めて許せたときに、その幼児欲求は満たされる。

 

外に親を求めても、得られはしない。絶対に。

なぜなら現象は気付きを求めているのであって、親を求めているわけではないのだ。

だけど自分が認めれば、それだけで欲求は解消される。

 

ただ認められることを求めているのだ、執着(幼児欲求)は。

それを求めずに自分で満たすことを覚えれば、外に求めることがいかに傲慢で無知だったのかを知るのだ。

 

そうすると人は自分がバカだったと認めるような気になり、格好をつけて「自分はそんなことはない」と逃げたがるが、幼児欲求を恥ずかしいものだと思っているから、いつまでも事態は解決しないのである。また同じことを繰り返し、無為に命の時間を浪費する。

 

だれにでも幼児のころがあったのだから、自然な欲求として認めればいいだけなのに。

自然を否定するから歪み、不自然になり、人生そのものの道が歪むのだ。

 

私もまた、親や祖父母に感じていた『話を聴いて欲しい』という無償の愛を求める気持ちを外に向けていた。

だから助けを求め続けていたのに、だれも私の話を聴いてはくれなかった。

家族、精神科医、小学校・中学校・高校の教師、カウンセラー、スピリチュアルカウンセラー不登校者のスクール、市役所の相談者、鑑定依頼者、ブログ、創作物の内容・・・。

 

ありとあらゆるところに『話を聴いて欲しい』という助けを求めていた。

理解してくれなくても良かった。ただ、話を聴いてほしかった、共感してほしかった。

その気持ちを自分で認めるためのこの道すがらで、だれも話を聴いてはくれなかった。

 

pyoさんでさえ、突き放してくれた。

pyoさんの場合、大半が自動書記だったので、たぶん、あえて厳しく突き放す存在に突き動かされていたのだろうと今ならわかる。

 

あえて突き放すことで、自分で自分にたいする気付きをサポートしてくれたのだろうな、とpyoさんよりも見えない存在の厳しくも大きな愛を感じた。

 

私でなかったら、あんな厳しい指導から気づけたかどうかわからないな。

それを見抜いたうえで見えない存在がビシバシしてきたのだろうが、なかなかなものだった。胃炎になりかけたものな。

 

どんどん指導が容赦なくなっていって、自分のことも追い詰めていたしで、いま思えばギリギリだったな。

 

よく、親の愛は親になってからわかるというが、親の愛は親にならずともわかる。

見えない存在の愛は、見えない存在が意図するところに到達すると実感できる仕組みなのかもしれない。

 

ただ、あえて話を聴いてくれなかったおかげで、やっと子供のときから感じていた不十分な感じ、満たされない感じが『話を十分に聴いてもらえる』という無償の愛でもってして満たされたかったのだと気づけた。

 

創作にしたって、私の話を聴いて欲しい!が優先で、内容は伴っていなかったかもしれない。なんというか、私の話を聴いて!理解して!がメインで、独りよがりなオナニーというか。

 

作者の感情ってダイレクトにその作品に乗るから、重いなら重いものを感じるし、軽いものなら軽いものを感じるし、適当なら適当、楽しいなら楽しいとどストレートに伝わる。

ブログの記事ひとつとっても、ツイートのひとつとっても、そこに作者の性格や性質までドバっとのっかっているから、見た人聞いた人触れた人にズバッと伝わる。

 

だから楽しいものっていうのは楽しいものが欲しいと求めている人に感染して爆発的に拡大しやすい。

 

重すぎるとコアな層に好かれるんだろうな・・・。

個人的に最も感情移入しにくかったホラーゲーム『コープスパーティー』みたいな。

 

声優さんも無理して演じているって感じで苦手だったし、台詞を聴いていて楽しくないどころか息苦しかったし。銀さんの声が特に。

 

好きな声優さんなだけに、あー無理しているな感がつらかった。

演技に感嘆したりノリのよさを楽しんだりするどころか苦しいつらいって、まったく楽しくない。

 

作者の癖が強く出ている作品って超苦手。

音楽でも小説でもなんでも。

感情移入しにくいというか、重いというか。

うん、重いんだろうな、胸やお腹に載っかる漬物石三個分みたいな。

 

作者の癖つよすぎ!前面に出過ぎ!って拒否抵抗感が出てくるっていうか。

まさに作者そのもの、作者の癖バーン!って感じで、読む方聴く方のことをまったく考えないでべらべらしゃべって一方的に満足する図々しい人、みたいな。

えぐいナルシスト、みたいな。

 

 

 

何の話してたっけ?

自分でも長く書いていると脱線してなに話していたかわからなくなってくる。

人と話すときも自動書記ならぬ自動応答なときがあるから、だんだんまとまりがなくなってなに話していたんだっけ?ってなるんだよな。

 

私の中に幼児欲求があって、すごく『だれかに私の話を聴いて欲しい』と求めていたから、人の話を聴かない人、聴いていない人が許せなかったし、適当な相槌を打たれると適当に流し聴いているとわかるから余計にイラッとして、私が話してやっているのに!アドバイスしてやっているのに!だれがおまえの話を聴いてやっていると思っているんだ!とか、話を聴いてやったのに感謝が足りない!とか思ったり。

 

自分の話を聴いて欲しい欲求ばかり先行させる人に反感を持っていたけれど、私自身もそうだったんだなとふと気付いた。

 

ずっと許せない依頼者たちがいたけれど、その人たちの話を聴くのではなく、依頼者にたいして話を聴いて欲しいという無償の愛を要求していたんだ。

 

依頼者も無償の愛を求めていたし、親代わりにして「自分の話を聴いてくれなかった」「自分のことをわかってくれなかった」と私に八つ当たりしていたんだろう。

 

自分のことがわからないので自分のことを教えて欲しい、という人もいたけれど、自分のことがわからない人のことなんて私にだってわからない。

 

だけど、その人は自分のことをだれかがわかってくれると期待しながら、ほんとうの自分を見せることを怖がっていた。

 

わかってくれることを期待していながら、見せたがらなかった。

だから私もその人のことがあまり見えなかった。

 

本人が自分のことを見抜けるかどうかを試していて、見せたがらない。

親に察して欲しい、わかってほしい、なにも言わずに子供のことをすべて把握しろとでも言うのだろうか。

 

親に期待しすぎだ。自分だって自分のことを隠しながら、見抜いてみろなどと甘えきっていたことを自覚もしないで、親にはすべてを理解して察して欲しいなどと、どれだけ傲慢なんだ。

 

そんな天の邪鬼でへそ曲がりの人間のことなんてだれも見抜きたくない。知りたくもない。なにも知らないままで関わりたくなどない。

 

見た目のいい人だというのはなんとなくわかったけれど、その程度で他人を試してバカにするような人間のことなんてだれも知りたくはないだろう。

 

自分のことをなにもわからない、などと、尽くすタイプの女を罵るためにでも使うのだろうな。このお試し行為を。

 

いまなら、そんな依頼があったら、自分のことがわからない人のことなんてなにもわかりませんと一言添えて、キャンセル一択だ。

 

人を試してバカにするようなやつ、こっちから願い下げだ。

そんなやつからお金なんてもらいたくもない。

 

依存心がばがばな人も嫌いだが、高飛車でお試し好きなやつもうざい。

見抜けなかったこと、力が出なくて見難い状態だったことを自分で責める部分があった。

 

見抜けていればバカにされることもなかった。むしろ、キャンセルしてやったのに!と思った。バカにされたんだからバカにし返してやればよかった!!と思った。

 

でもいまなら「見抜けなくてどうもすいません」と淡々と言えば、相手からなにも受け取らなくていいんだ。

 

自分の力不足だったとか、万全の状態だったならとか、そんなふうに自分を責めなくていいんだ。

できなかったことをできなかったとありのままに認めていいんだ。

 

 

 

それに、私はしゃべるほうが好きだったんだな!

じつは聴くのは好きじゃなかったんだ。

嫌いじゃないけれど面白くない話、興味のない話はどうでもいいと感じるし。

 

できることと好き嫌いは別。

傾聴できるからって、したいわけじゃない。

 

幽霊には傾聴一択だったけれど、人間にたいしてはそうじゃなかった。

人間の話を聴くよりも自分の話、自分の知っている話をするのが好きだから、話をしていて楽しい人が好きなのだ。

 

黄色い種だから、話すほうが性に合うし、そっちのほうが好きなんだよな。

 

お風呂の排水溝が臭いので掃除してきた。

真っ黒だった・・・。

次からはクエン酸重曹でやろうかな。

そっちのほうが安全なんだよな。結局。

臭いは取れたみたいでよかったー。

 

とりあえず私は無償の愛=話を聴いてくれることを求めていたことがわかった。

すっきりした。楽になった。もっといっぱい話を聴いてほしかったんだな、話したかったんだな、話すほうが好きなんだな!とわかって、むしろ肩の荷が下りた。

 

どんだけ重荷を肩に背負わせているのーって感じだな。

内観もやりすぎれば弱いところになにか出てくるし・・・。

 

口内炎もなかなか治らなくて、復活してはつぶれてをくりかえしている。

まー私の中に不満がごっそりあったんだなーということで放置したり、舌でつついているうちにつぶしてしまったり。

 

私にとっては書くこともしゃべる内なのかもしれない。

しゃべりすぎているせいか、書いているだけなのに、のどが乾いていてくる。

 

やっぱり私はカウンセラーだとかセラピーだとか、人の話を聴くっていうのは性に合わないなーと改めて感じた。

知っていることをしゃべるほうが好きだー!